妙法の種は死なず ~今よみがえる日持上人のこころ~ 日持上人北辺開教の経路
秋田県五城目町 宗延寺住職 分銅日香上人
前日蓮宗秋田県宗務所長 立教開宗750年慶讃特派布教師
◆北辺開教出立の日を命日とさだめる。
日本最初の海外伝道者となった六老僧の一人、蓮華阿闍梨日持上人は祖滅十四年、永仁三年の元旦、ふるさとの地、駿河の松野(今の静岡県富士川町南松野)の蓮永寺から、決然、北辺開教の壮途に向かった。錫は東北、北海道、棒大、シベリア大陸と化跡をのこし、その先は沓として終わるところを知らない。中国の宣化、立華寺がその終焉の地だという説もあるが、定かでない。日持上人門下では、その出立の日をもってご命日としている。それは日持上人のご遺命でもあったと言われている。ひとりの伴も連れず、二度と帰ることのない決死行、死身弘法の旅であった。日持上人はその日をもって、魂魄の身となられたのであろう。それからすでに七百年の歳月が流れ、来る平成六年元旦がその正当の日となる。
静岡県沓ヶ谷の本山蓮永寺、松野の永精寺をはじめ、北海道教区、東北教区等、日持上人縁故の地では、第七百遠忌慶賛の事業を推しすすめようとしている。恐らく宗門あげての大慶賛事業となることであろう。偉大なる伝道者の魂魄が今まさによみがえろうとしている。
日持上人は建長二年(一二五〇)に駿河松野の御家人、宗祖の直檀、松野六郎左エ門の次男として生まれた。長男は松野六郎左エ門尉であり、姉は上野南條兵衛七郎に嫁し、後に上野母尼御前と称された人である。著名な南條時光公は、日持上人の甥にあたる。一門悉く宗祖の大檀那であった。
日持上人は幼名を松千代と言い、七歳にして出家、岩本実相寺に於いて修行し、初め白蓮阿闍梨日興上人について入信し、後に宗祖の本弟子六老僧の一人となる。文才に秀で、和歌、漢詩に通じた。名文章とうたわれる持妙法華問答抄は古来日持上人の作と言われ、宗祖のご在世中に印可を受け、準御書のあつかいを受けている。正応元年(二一八八)宗祖の七回忌を迎えるに当たり、日持上人は大願主となり、宗祖等身の御影像を造立し、これを池上本門寺に奉安している。拂子を手にされた本門寺大堂の祖師像(国宝がそれである。永仁二年(一二九四)の九月、松野の生家蓮永寺にあって、宗祖の第十三回忌を営み、ついで身延山の御廟に詣で、寒外伝道の決意をご報告し、翌永仁三年、正月元旦後事を弟子日教に託し、いずことなく立ち去った。その経路については今なお定説がなく、宗門文献は白紙のままである。
◆経路について一は定説なく白紙のまま
東北の青森管区には日持上人を開山と仰ぐ寺院が四ヶ寺、青森蓮華寺、弘前法立寺(現宗務所)、法峠の法嶺院、法峠寺、さらに、黒石の妙経寺、平館の聞法寺等いくつかの縁故寺を数えることが出来る。しかしその経路についてはたしかな研究がなされていないようだ。津軽の法峠にはいるには、東北の東がわ太平洋岸を通ったのか、北前船の裏日本を辿ったのか、それすらも判然としない。
日持上人より一年ほど早く、永仁元年(一二九三)に帝都弘通に旅立った像上人は、身延山から信州、越後を通り、佐渡島に渡り、宗祖流罪の聖地を巡拝四年にわたる艱難辛苦を偲び、小木の港から海路を南へ、能登の七尾港に上陸、そこから北陸道を経由して、京都に向かっている。私の推理では、日持上人も、それと同じように佐渡島に渡り、宗祖の御霊跡を訪ね・その後、小木の港から海路を北にとり、奥州に向かっている。その最初の上陸地点は現秋田市の土崎港と考えられる。以上のことは古文言や文献にあることでなく、いわば私の霊感に類するような学問以前のことである。一の夢物語として読んでいただければ幸甚である。
そもそもの発端は、昭和六十一年に発刊された富士山本門寺の貫主、片山日幹猊下の米寿記念の著書「愚直道人懐古録」の四七九頁に、東京都台東区、菊屋橋医院長、医学博士佐藤絢子女史の御神示の口述の書面があり、そのなかに「六老僧の一人日持上人は新潟のだらにのお寺からシベリア、チベットヘ行ってなくなられた」という一節がある。女史は病院長であると共に、宗門ではかくれもない篤信の霊能者として知られており、私は、先ず日持上人が新潟から出発したということに注目し、陀羅尼のお寺を捜すことからはじめた。その結果、陀羅尼のお寺については、越後の国府(直江津)に近い高田に先ず陀羅尼町という奇妙な地名があり、そこに日蓮宗の毘沙門堂日朝寺があった。日朝寺には奇しくも日持上人が参籠し、北方守護の毘沙門天に北辺開教を祈願されたという貴重な伝承が残っていた。しかもこの毘沙門堂は、宗祖日蓮大聖人が佐渡島から帰還の時に一夜の宿をとり、それが縁で、墓言宗から日蓮教団に帰伏している。そのことは市川智康師の著書「日蓮聖人の歩まれた道」に出迎えの毘沙門天としてくわしく書かれている。陀羅尼町のいわれは、宗祖がここを通られる時に、陀羅尼神呪を唱えると、夕闇の中から毘沙門天の化身(童子)があらわれ、大聖人の荷物を持って、毘沙門堂に案内したという説話にもとづいている。
◆佐渡の小木の港から秋田土崎港へ?
日持上人は大聖人往還の道をたどりながら、この毘沙門堂、日朝寺に至ったものであろう。あるいはすでに日蓮教団の越後の一拠点であったかも知れない。恐らくこれより八ヶ月前に帝都弘通を目指す日像上人もここに旅装を解かれたことであろう。霊界から視ると、この毘沙門堂が、日持上人の誓願、旅立ちの寺となるであろう。
日持上人はここから直江津の国府におもむき、領内通行の許可を受けたにちがいない。
当時の日本海沿岸は日本の表玄関であり、船便も頻繁であったようだ。佐渡の小木の港は天然の良港であり、後の北前船の停泊地でもあり、日像上人、日持上人もここで船待ちをされたであろう。
秋田の土崎港を日持上人の上陸地と想定した理由は、日持上人の化跡をしたい、東北、北海道の遺跡を顕彰した京都本満寺の塔頭玉持院二世、久遠院日尋上人が先ず、この土崎港をたずね、上陸の地として法華寺を建立していることであり、法華寺の縁起によると、開創は文亀二年(一五〇二)の四月八日となっている。当時は浜の法華寺と呼ばれ、日蓮宗としては県内最古の寺院である。
日尋上人は東北、北海道を往辺して、日持上人の事跡を尋ね、松前と上ノ国町に法華寺を創建している。上ノ国の法華寺は後に近くの江差港に移転し、現在に至っている。又日尋上人は津軽の岩木山のふもと、大浦城下にも法華堂をつくっている。今の弘前法立寺(青森県宗務所)の前身である。さて七百年前にもどり、土崎港に上陸した日持上人はどういう経路をたどり、青森県の黒石、法峠にはいったであろうか。勿論、推測の域を出ないが、おそらく日持上人は土崎港に、東北の開教の一歩を印し、かなりの日数をついやし、お題目の宣布をなされたであろう。
◆大岩石にお題目を刻み経石を埋める
土崎港は北方の雄、安倍-安東の政治経済の中心地であり、後に法華寺、本妙寺、久城寺、伝法寺(この四ヶ寺は慶長の佐竹義宣の城下町構築の折り、土崎から現在の秋田市寺町に移転させられた)のほか、今も見性寺、実城院、本住寺の三ヶ寺があり、日持上人の開教と決して無縁とは思われない。特に地形上からみて、現在の実城院のある地には、港の守護神、琴平宮があり、日持上人の止宿を思わせるものがある。実城院の縁起によると、ここに仏堂の出来る以前から、日蓮塚と呼ばれた草堂があったということである。
その後、日持上人は南北朝以前の古道である現五城目町浅見内(宿場)を通り、増浦から桧山、能代方面へ出て、羽州街道にのったのではなかろうか。私は縁あって、三度法峠にのぼっているが、黒石地方には日持上人が羽州から津軽にはいったという言い伝えがあり、羽州街道の比内から、碇ヶ関を越え、大浦、黒石、法峠に至ったであろう。
日持上人の開教の特徴上げると、第一に自然の大岩石にお題目を彫刻したことであろう。第二に法華経の経石を結縁の地に埋め、未来の妙法広布を祈ったことであろう。
その顕著な例は、東北の霊場と称される青森県の法峠であろう。法峠は北海道を指呼の問に望む山中にあり、享保六年(一七二一)黒石妙経寺の八世日浄が山中に埋もれていたお題目の宝塔を日持上人の彫刻と鑑定し、はじめて世にあらわれたものである。今ここには法嶺院と法峠寺の二ヶ寺がある。
かって宮沢賢治もこの法峠をのぼり、山上の宝塔に拝跪している。日持上人の遺徳を敬慕し、賢治自ら、中国大陸のはてまでお題目を弘めたいという考えをも一でいたようである。大正十二年には北海道、樺太へもわたっている。
この法峠を下ると青森市である。そこには日持上人を開基とする名刹広布山蓮華寺がある。当所の浦ノ三郎助の家に逗留したことが、この寺の創立のきっかけとなった。
日持上人は外ヶ浜から津軽半島の突端、平館に出て、そこから北海道に向かって船出をしたと言われている。平館には船出の霊場、開法寺がある。
当初、日持上人は平館から対岸の松前港を目指したと思われるが、潮流にただよい、函館の東、石崎の浜に上陸している。日持上人はそこを結縁の地と定め、四年間滞在し、東西に布教している。
◆樺太の白主には石の宝塔が沈んでる
平安元年(一二九九)六月一日、日持上人はこの石崎の庵室を離れるが、その時、随身仏と経石を土中に埋め、その上に「後生」の二字を記したという。後に後生庵、経石庵と呼ばれ、今は日持山妙応寺となっている。石崎に別れを告げた日持上人は、当初の目的地である松前に移り、宇賀浦に茅舎を結んだ。この松前には日尋上人が建立された名刹光山法華寺がある。法華寺は北海唱導の触頭として大伽藍を擁し、宇賀浦の土中出現の宗祖尊像(伝日法上人作)、経石等を格護している。宗祖尊像は松前藩の重臣、小林三左工門が宇賀浦で感得し、法華寺に奉安したものだという。(石崎志苔から感得したという説もある)土中読経の祖師像ともいう。
仏祖統紀等によると、日持上人は宇賀島で入寂したことになっているが、真実は、さらに日本海を北上し、当時の政治の中心地であった上ノ国に至り法華堂をつくっている。今も上ノ国町には、法華寺にちなんだ地名が残っでいる。上の法華・下ノ法華、法華坂などである。法華堂の麗から経石が発見され、後に日尋上人によって玉持山法華寺が建立された。この法華寺が江戸時代の、寛文五年(一六六五)にとなりの江差港に移され、今の成翁山法華寺となっでいる。寺は港を見下ろす高台にあり、境内には遙にシベリアを望見する日持上人の笠杖の銅像がある。
当時、江差は入蜜船千艘とうたわれた。おそらく日持上人はこの江差の港から乗船して、日本海岸沿いに樺太、現サガレンにわたったであろう。日持上人の教跡は、新潟から秋田、青森、函館、松前、江差、さらには樺太の白主海岸、真岡海岸の阿幸、北樺太のアレクサンドロフスクと一貫して日本海を北上している。氷結期には、樺太と大陸がつながるという知識があり、それを目途に開教を重ねていったのではなかろうか。
◆アイヌの人達もお題目を唱えていた
樺太の西海岸の白主には石の宝塔が海中に沈んだままになっている。かつては陸地であり、ここに着船された日持上人が、異郷第一歩の感激をこめて、岩に刻んだものであろう。その後、地盤の沈下か、海嘯のため・海中に沈んだものであろう。その海中宝塔の浜に古くからアイヌの信者達によってつくられたお籠堂があったという。はじめて日本人が自主にはいった頃、アイヌ違はすでにお題目を唱え、合掌礼拝の五体投地をしていたという。七百年前に蒔かれた日持上人の教えが、伝承を忠実
にまもるアイヌ違のなかに生きていたのである。そしてこのアイヌ達が真岡や本斗に建立された日蓮宗寺院の最初の檀家になったということである。
日持上人の宝塔はここだけでなく、さらに北にのぼった阿幸というところにも、日持上人建立と言い伝えられる宝塔があった。終戦後、この宝塔は惜しくもソ連人によって撤去されたが、幸いにも樺太から引き揚げて来た北海道西部布教師会長の三上光律師がその阿幸の宝塔の写真を持っており、お題目は風化しているが、蓮華の二字だけははっきりと読みとれるという。三上上人の報告(護法伝道部発行の法話集)によると、戦前からソ連領であった北樺太のアレクサンドロフスク港の岡の上にも題目石があり、通商していた日本人達が、ソ連人の案内で登って確認している。下部にヒモチ(日持)という文字がうすく読みとれたということである。
日持上人の七百遠忌を目前にして、予想もしなかったソ連の赤い壁が一夜にして、くずれ落ち、かわって日ソ交流の気運がにわかに高まっている。あるいは対岸のシベリアの山中から、日持上人の宝塔が発見されないともかぎらない。その可能性は充分にあるのではないか。種はくちることはない。いよいよ私達が日持上人の精神(こころ)にたちかえらなければならない時が来たようだ。

