私達の誓願
秋田県横手市 正法寺住職 金光浄上人
日蓮宗秋田県宗務所宗務事務長、日蓮宗立教開宗750年慶讃布教師
時間には早いんですけれども、少し早めにお話しを申し上げたいと思います。
私は噛みつきませんので、どうぞ前の方にどうかお進みになって下さい。ただ人の膝の上には上がらないようにひとつお願い申し上げます。
本日は大変雪の深いところ、管内の各地から多数ご参集いただきまして、ご聴聞の程誠にご苦労さまです。
本日は「第32回秋田県交通安全祈祷会」でございますけれども、ご当山本善寺におかれましてもご子息上人が中山での一百日の荒行堂無事終えられまして、ご帰山なさっての祈祷会でございます。誠にご同慶にたえないところでございます。先程護法事務長さんより縷々立教開宗等に尽きましてご案内がございましたけれども、やや、似たような話しで誠に申し訳ございませんけれども、三十分ぐらいの法話となりますがしばらくの間お取り持ちの程お願い申し上げます。尚、私の声がなかなか通らないと言うことをよく言われますのでひとつ頭の光に免じてよろしくお付き合いの程願えれば幸いに存じます。あのう、どうか堅くならずに、どうしても私の顔が真面目に見えるものですから、ややもすれば皆さん方緊張してしまいますので、どうかひとつお柔らかにお願い申し上げたいと存じます。
宗門では日蓮聖人が、旭ヶ森で初めてお題目「南無妙法蓮華経」の五字七字を唱えてから、ちょうど西暦二○○二年、平成十四年には七百五十年目に当たります。その立教開宗七百五十年を迎えまして今、日本全国ではお題目総弘通運動と言うものを展開してございます。この運動もちょうど第三期目入りまして、いよいよ最後の段階を迎える時に来ております。で、この第三期目と申しますのは「立正安国」即ち、正しい教えを立てて国を安んずる。もっと分かり易く言いますと法華経を心から信じることにより、この世に暮らすすべての人達が、安心の出来る浄仏国土を築きあげようというのが日蓮聖人の大目標でございますが、その願いの誓いを新たにする段階がこの三期目でございます。本日ご参集の檀信徒の方々もそう言った気持ちでひとつご精進あらんことをお願い申し上げる訳でございます。
そこで日蓮聖人が立てられた「誓願」という心の根の本を考えて見ますと、それが一体何処から出てくるのかという事は、一昨年の交通安全祈祷会の中で私が一寸お話し申し上げたと思いますけれども、日蓮聖人の御遺文の中にこう言った下りがございます。「本より学文候し事は、仏教を習いきはめ(究)て仏になり、恩ある人をもたすけ(扶)んと思ふ。」
ちょうど聖人のお言葉の奥底には、父母から、あるいは世間といった様々な方々からの恩を感じ恩に報いようとする、聖人の心の中からの大きな魂の目覚めから出ている、ということが良く解るかと思います。一口に恩と申しますけれども、今時、いろんな世情を見渡してみますと、ね、なかなか恩というものが若い人の心の内に届いていないのが現状でございます。先祖に対して「お仏壇拝んでから学校さ行けよ」とか「手を合わせてから、こうしなさいよ、ああしなさいよ」と言っても、ああ、今忙しいからとか、ああ、面倒くさいやと言うようなことで神様は構わない、仏様はほっとけと、いうようなことでね、若い人達にはまったく関心がない。「何で水あげるんだって」「何でお膳あげるんだって、ねえ、亡くなった人が実際手を出して喰うわけでもないのに、何でそんな事するんだ」と。今の若い人達は事につけ何でも理屈でもって解釈しようとする、学校教育の現場においても自己主張を重んじる為か、とかく守ることよりも自我主義的な意見の主張を唱える傾向の人達が今増えております。
それからやはりまあ、こういうバブル後の難しい、厳しい経済状況になってきますと、必ずしも長男が後を継ぐという時代ではなくなってきたんですね。長男さんは職を求めて遠く県外に行きます。そして向こうで好い人と知りって嫁さんを貰えば、おっ家内のを貰うに決まっているんです。そうすれば当然、ね、雪の降るところはいやだから、こっちの方で居を構えましょうと、まあ、だんだん頭をなでなでされながらですね、向こうに住みつきますと、先祖もかまわなくなり、遠くなって実家にだば帰って行かれない、ということで、又別個に墓を求めたり、あるいはですね、せっかく父さんが頑張って、六十なって、やれやれ退職だと思ったら、お母さんが離婚届を出して、さあ別れましょうなんて言う時代が今都会には増えてきております。それから、嫁さんが、舅さんの墓には入りたくない、死んでまでお付き合いは嫌だと、又死んだ後まで旦那の言いなりにはなりたくないということで、そういった同じ悩みを持った人達がやはり別個に墓を共同で建てるような時代にもなってきました。
それから、今パソコンとかそういった機械物が、ますます発達して来ておりますけれども、そういった中で墓の事情も大分変わってきました。パソコンのインターネットで簡単に全世界に繋がるようになりました。そうすればちゃんと自分の墓がその画面に出てくるんですね。そうするとテレビの画面に向かって数珠を合わせて、どうも南無南無・・・と。そう言う時代が今来てるんです。何も墓まで行かなくたっていいんです。わずか四畳半の部屋の中で手を合わせるだけでいい、テレビに向かってお辞儀するだけでいいんですね。そういう時代が今すこしずつ若い世代の中に蝕んできているんですね。まあ蝕んで来ている、と言うことは、別に良いとか悪いとかという事ではございませんけれども。
話は変わりますが、やはり演歌の世界におきましても、この頃ちょっと人気が薄れてきていますよね。演歌歌手もリストラにあって、くびになってる方も沢山居るようです。今「孫」という歌っこ流行ってますね。ちよっとあの歌、別の歌手の歌と似ているということで少々問題になってますけど、そう言う人情味の厚い演歌が段々忘れられてきてるんですね。そう言った時代に今、私達が置かれてるわけなんですが、それに合わせるようにですね、今、様々な新興宗教、オカルト教団が出て来ていますね。最近新聞を賑わせているミイラ取りがミイラになったようなあれなんか、色々な話しを聞きますと、当初自己啓発セミナーのような感じのものだったようですけど、高橋某と言った教祖さんが、まあこれなんかいわば疑似宗教ですよね。ちゃんとした宗教ではないんだけれども宗教に似せたものみたいなもんでしょうね。そういった人を悩ますような団体が出て来たり、又、足の裏で健康を見るような、何といいましたっけ、法の華三法行といったかなー。ある人なんか、なんだい、その法の腹三段腹と言うのは、三段腹じゃなくて、三法行だってば。何だかそういったような話しも聞こえてきます。そういう所に若い人が何故群がるかというと、やはり、ある大学の先生が一寸おっしゃっておりましたけれども、自分自身の持っているイメージを変えてみたい。或いは何か感動できなことを経験してみたいという方が十代、二十代、三十代の若い人達に今増えてきているんですね。その心に親たちが気づかないで通り過ごしているような所があるんですね。丁度そうした変化に合わせるように人の心が段々荒んできますと、様々な事件がマスコミを賑わして来るようになってきましたね。特に殺人事件がこの頃若い人たち、段々若年化してきていますね。あの、この間も、京都でだったかな、小学生の殺人事件がございましたね。それをやったのも若干二十一歳の方であったわけですね。又、新潟では何と九年二ヶ月に及んでですね、小学校四年生の女の子を誘拐して、そして、玩具道具にしてね、監禁していたと、それをやったのも、やはり、若い方だったんですね。それからつい最近では、兄と弟で、なかなか弁当を作ってくれない、おかずを作ってくれないと言うことで、お母さんのことを責めて殺してしまったと言うような、おぞましい事件が最近起きてるんですね、その背因を一寸見てみると、やや共通しているなあーということは、どうも、お母さんと息子暮らしの家庭が多いですね。どうしてもお母さんは女性ですから、甘やかすわけではないけれども、大事にしてしまう所があるんですね。で、そう言った事を考えますと、何か父親の権威、父親の役目と言うものが段々段々薄くなってきてですね、ここ頭のことじゃないんですよ、父親の力の存在というものが弱くなってきている。逆に奥さんの力が強くなってきている。また子供の力もそれに伴って強くなってきている。要するに亭主の権威が徐々に失墜し脅かされ、あまり意見を言わなくなってきた。そうした事情背景が年と共に強まってきているような感じがするんですね。
そうしたら、今月に入って、読売新聞なんですけれども、新聞を見ていたら偶然興味深い記事が載ってたんですね。日本人の道徳心、躾が外国と比べたら最低だよと言うような記事が載っていましたが、見ましたでしょうか。読売新聞にちゃんと載ってたんですよ。それでね、新聞に、こう言うことが書いてあるんですよ。ええと、日本と米国と韓国とイギリスとドイツの小学校、中学校を対象に行われた文部省の子供の体験活動等に関する国際比較調査。こういうような企画があったんですね。外国と日本の子供は何処がどう違うんだろうというような事で、色々調べてみたら面白い結果が出たんですね、面白いというより情けないというか、ええと、日本の場合ですね、例えば友達と仲良くしなさいと言われる割合が、母親からの場合、29%。二割九分なんですね。で、お父さんから友達と仲良くしなさいよ、と言われる割合が一割九分、19%しかない。ところが一方米国では80%の親が注意を促している。イギリスやドイツや、お隣の韓国では六割から七割の親達が普段から躾ているというんです。それから嘘をつくなと、いうようなことがありますけれども、日本人はまことに嘘をつくことが上手だかもしれません。日本の場合にはですね、父親から、嘘をつくなよと子供に教える割合はたった29%なんですね。二割九分、母親から嘘つくなよって言うのは、41%、これは若干高いんですけど。じゃ他の国ではどうかというと、六割から、八割までの親が嘘ついちゃだめだよと、普段から教えこんでいるそうです。どうですか、皆さん方。胸に手を当てて一寸考えていただきたいと思います。それから弱い者いじめをしないようにと、親から注意される、又は人に迷惑をかけるなと、と言うような質問でも、日本人の回答が一番最低だったそうです。外国に比べて。社会のルールとか、道徳心に関して躾が日本が一番不十分だったと言う比較調査が出たんですね。で、特に日本の場合父親からの注意が少な過ぎる。仕事が忙しい、仕事が忙しい、ああ、子供のことはみんな母さん任せだというような感じが強いと言うことなんですね。また、身体の不自由な人やお年寄りの手助けをしてあげたとか、困っている友達の相談のってあげたという割合も、日本人が一番少なかったんですね。外国と比べて。で、これについて広島大学のある先生がおっしゃってるんですね。今の親達が充分な躾を受けていないこと、これが原因の一つである。それからもう一つは、社会全体に自分さえ良ければ関係ないと。生きてればそれで良いんだと言うような考え、風潮が、先程申し上げたような心の風化がですね、段々若い人に多くなってきている。ですから事件も段々段々若年化して来てるんですね。
で、それを裏付けるように、あのうやはり読売新聞の記事なんですけど、ある方からの投稿の文章の中で、買い物する人にもルールがあるはずじゃないかと言う内容であったんですけど。で、この投稿記事によると、東京である店を開いている吉沢さんという方なんですけれど、自分は商売をやっているから出来る限り親切心とサービス精神で接客マナーに対応していると。まあ、これが商人の基本だろうと思って一生懸命頑張ってきたわけですけどね。ところが、商人泣かせの万引きということでですね、例えば子供が万引きしたのをたまたま捕まえて、その親に連絡をとり、よーく子供に注意してあげるようにと、電話しますとですね、きちんと店の管理してないあんたが悪いんだ、と逆に盗んだ子供の親からそう言われるそうなんです。盗まれるようなことをするなと、いわんばかりにそう言う。また、代金がそんなに欲しいならさっさと家に取りに来い、と逆に叱られたり、詫び状の言葉も聞けないのが本当に残念だと。このようなことは数からいうと結構多いと言ってますね。お客さんは神様と、それは確かにその通りなんですけれども、お客様にだって買い物のルール、規則というものがあるんじゃないかと、ね、道徳心というものがあるんじゃないかというようなことをですね、あの、読売新聞の投稿に載っていたんですね。やはりそういった記事が載るということは今の日本の若い人達の、或いは今の親の心をですね、ああ、成る程なーと考えさせられるものがあるのではないかなと思うわけなんです。
昔の家庭ではですね、一番偉いお爺ちゃんなり、お父さんがいて、いわゆる、ここの家では昔からこういう躾だよという伝承があったんですけど。つまりお爺ちゃんからお父さん、お父さんから孫という、語り継がれる伝承があったんだけれども、どうも、その心の伝承、受け伝えていく事柄が、ぼやけてきているんですね。ですから普段から良い習慣を身に付けるようにと、人から言われるんではなくて、自分から心に誓って戒めるような心を起こしていかないとどうにもならない、今そういう時代になってきているんです。自分自身から心に誓って悪事を戒めるような、ね、そういった気持ちを起こしていくような言わば「誓願」の時代に入って来ているんですね。今時、本人自身が誓って願わなければどうにもならない時代になって来ているんですね。そこに「誓願」という言葉が出てくる訳なんですけれども、誓願を立てる為には人生に対する深い機縁がなければだめなんですね。機縁と言うのはきっかけで、それがなければだめなんです。例えばお父さんが、ちょっとしたことで、此処のところ掃除しておけよ、とかあれこれ買って来いよ、とかこうしなさい、ああしなさいよ、と言われる中にもそういう縁が増すことによって、自分自身の心の修行となり、或意味では心の有り方というものを色々と考えさせる機会となる。そういった機縁が必要なわけですね。そうした心の規律、即ち自分自身の心から戒めようという事が大事なんですけれども、その問題を「四弘誓願」と言う法語を通じて、ひとつお話し申し上げたいと思うわけであります。
この後の法要の中でも皆さん方が「衆生無辺誓願度」とか、「煩悩無数誓願断」ってお勤めするわけですが、多分ご存じだと思いますけれども、四弘誓願の中に示される私達の心の規律というものは、自ら修める、自ら戒めなければなりません。戒めるという字は、戒名の戒です。また戒律の戒ですね。その「戒」というのは、どういう意味かと申しますと、その戒と言うのは自分の身体と心を調整してですね、良い習慣を身に付けることを戒律の戒というんですね。で、皆さん方も戒律という言葉をよく聞くと思いますけれども、戒律の律は解りますね。律は法律の律と同じなんですね。人からああするなよ、とかこうしなさいよとか、いわば外部から、いろんな規則で律することを律と言うんですね。ですから好きだとか、嫌だとかに関係なく良い物は良い、悪い物は悪いと、法律で定めることを律と言うんですけれども、戒の場合はそうではなくて、人から言われるとか、他人様から規制されると言うことではなく、自分の心の奥底から自発的に出てくる行いなんです。それが戒なんです。ですから法律とは違うんです。ですから皆さん方でもそうでしょうが法律を勉強してますと、どうも感覚的に合わない事が沢山出てくると思うんですね。感情的に納得できないとか、どうしてもこれはおかしいんじゃないかという事が世の中には沢山あるわけですね。それは万人に共通した事柄で押さえましょうという考え方だからそう言った問題が出て来る。ところが一人一人が自分の心から自発的に出て来るところの規則というものは、人から言われることと違って非常に違ったものとなって出て来る訳なんですね。戒の考え方は、大乗仏教の時代になってきますと自分だけの戒ではなくて、いわゆる利他行と言いまして、自分だけではなくて、周りの人にもそういった恩恵を与えてあげましょうと言うような考え方が出て来たんですね。人のためにも尽くしてあげよう。人のためにも教えてあげようと言う考え方です。それは四弘誓願の所の最初に出て来るところの「衆生無辺誓願度」にあたるわけなんです。
「衆生無辺誓願度」と言うのはどう意味かと言いますと、衆生の無辺なるを度せんことを誓願すると言うことですが、一切の生きとし生ける物を悟りの彼岸に渡そうという願いなんですけれども、分かりやすく言いますとお互いが共同社会に生きているのではないのか、お互いが一つ屋根の下で暮らして居るんじゃないかと言う考え方なんです。ですから自分だけが良くなってもいけないんだと。ね、周りの人とも家の中に居る家族ともみんな共に良くならない限り、家全体が良くならないんだと、だからお互い同士共に良くなりましょうと言うのが「衆生無辺誓願度」。ところで、付け加えなんですけど、あのーこう言う言葉もあったんですね。「じこ主義」と言う言葉なんですけど。この言葉、或所で聞いたんですけれど、じこ主義というのは自分の己でなくて、自分の子供の主義と言うふうに書きますけれど、どう言うことかと言いますと、その先生がおっしゃるには、この頃あるお母さんが、例えば子供が学校のクラブ活動に入っていて、そのクラブ活動が今一番忙しい時に、塾があるから自分の子供だけは勉強させなければいけないということで、いいから、いいから、クラブ活動やめて、早く戻って来い。で、さっさと塾さ行って来い。自分の子供だけが良ければそれで良いと言うようなお母さん方が最近増えてきている。これを自子主義というそうなんですね。自分の子供の主義と書く。ですからそう言うことは、やはりお互いが共同社会の中に生きて居るんだから、お互い同士それぞれ命を見つめ合って仲良く生きていかなければいけないんじゃないかと言うようなことをおっしゃっておりましたけれども。
所で、あの、永六輔さんと言う方が、非常に上手な言葉の説明をしておりましたけれども、宗教の宗と言う字を繙きますと、うかんむりに示すと書いてありますけれども、これはちょうど家の中でお互いに守って示し合うことだということを書いてあります。宗教の宗というのはお互い家の中で示し合って生きているんだと言うことをおっしゃってる。ですから一人で生きてるんじゃなくてお互いが協力し合いながら、仲良くしながら、足りないものがあればお互い補いながら生きていくのが宗教の宗であると言うようなことをおっしゃってるんですね。それから今年四月から介護保険が始まりますけれども、日を追って高齢化と言う言葉が頻繁に使われようになって来ておりますが、高齢化と言う言葉もそうなんですけれども、唯年をとるという考え方だけではなくて、私達一人一人がみんな年がいったならば、豊かに年を取りましょう、いわば豊齢化と言うようなものの考え方をしていかなければいけないんだ、とおっしゃっている方がいました。高齢化と言うと、自分自身なんとなく惨めになってしまうとか、年がいって、まあ、色んな人から苛められて、こうだとかああだとか、おっしゃっておられますけれども、そうではなくて年を取るに従って、お互いに足りないものがあれば、支え補いあって、そして協力しながらやって行きましょうと、と言うような積極的な考え方を持つと言うことなんですね。こうしたことを誓ってお互いが良くなりましょうと言うのが「衆生無辺誓願度」でございます。
「煩悩無数誓願断」と言うのが次にございます。これは自分自身に対しての修行なんですが。ところで「衆生無辺誓願度」と言うのは自分のことよりまず他人のことを良くしてやりましょう、という誓願が一番先に来てるということは、素晴らしいことだなーと思っています。「煩悩無数誓願断」と言うのは煩悩の無数なるも断ぜんことを誓願す。一切の煩悩を断つことを誓願することなんです。一切の悩みですね。貪りとか、怒りとか、愚かしいことを出来るだけね、修行してそれを抑えましょうと。この間ある檀家のお父さんがですね、ある家へ用事で行ったそうなんです。そしたらその家でがやがやと非常に賑やかだったんですね。んで、何で賑やかなんだ、と言ったば、何となく家の中が異様な雰囲気で「おめばし、そたに貰ったって駄目だべ。おれさにだって、こっただけよこせ。」なんだかんだと喧喧諤諤。「いやー、お金の分け目の話しだ」とこういう訳ですね。それがやけに金額が大きいんですよ。何百万円だの、何千万円だのという話しなんですよね。で、「一体何の金なんだ」と訊ねると、宝くじだというんだよね。宝くじに当たってそれで「おめがなんぼだどか、こっちはなんぼだの、そっちはなんぼ」という話しで、「おめばし、そったに取ったりしねで、おれさ、こっきゃだけよこせ」と言った話しなんですよね。で、その父さんビックリしてしまって、「ええ!そったな一等賞に当たったなら、その宝くじ見せてみれ」と言ったそうです。そうしたら、「まだ買ってねって、買ってねってば」、とどうもまだ買ってないうちから喧嘩してんですね。買わないうちからそこの家では、家族同士ではでに喧嘩している。「親父おめー取り過ぎだの、息子おめー取り過ぎだ」のと言って、分け目が多いの、少ないとか、真剣に喧嘩してるもんだから「その宝くじ見せてくれ」と言ったら「全然買ってねー」と。これで本当に宝くじ買って、当たったらなんとすべ。本当に「貪り」というのはこういうことをいうんだなー。欲にはきりがないんだなーと。やっぱりそういう所は煩悩無数誓願断で、ひとつ誓願していただきたいなーと、そう思うわけです。
それから「法門無尽誓願知」と何気なく唱えますけれども、これはいわば勉強の方法論です。ね、皆さん方がお彼岸になればそれぞれ菩提寺のお上人さんから、六波羅蜜のご修行のことをよく聞くことと思いますが、何のことはない、難しく考えないで頂きたいと思います。六波羅蜜なんて難しく考えることはないんです。お布施だったら私の方へ、じゃなくて、お布施と言ったら、布施というのはボランティアと思ってください。ね、金が無ければ身体で奉仕して下さい。ね、そしていろんな人に役に立つ事をするのもお布施です。ね、笑って上げることもお布施です。ただし何時も笑っちゃいけませんけどね。笑って上げることもお布施なんです。で、それからあのう、そう言う時に自分を我慢することを覚えて頂きたいですね。それから、約束事は必ず守る。横手時間みたいに遅れていかないとかね、集まるときはきちんと集まりましょうと。何でもないことなんです。これは六波羅蜜の中にちゃんとあるんです。それで一生懸命頑張りましょうと、今日やって明日止めましょうということでなくて、毎日やりましょうと言うこと。ね。それから又たまには静かに反省して下さいと言うことですね。今日一日終わったならば寝るまえに、ちーんとカネを叩いてひとつ考えて見てくださいと。今日隣の婆さんに余計なこと言っちゃたなあ、あの人に変なことしゃべってしまったなあ、じゃ、明日はしゃべねように頑張りましょうと、仏壇に向かって手を合わせてあげる、そうした反省も必要だなーと。そう言った中で色んな智慧を身に付ける勉強していくというのが六波羅蜜なんですね。みんなその中に入っている。何も難しいことないの。私達の日常生活の中にこそ仏の教えが生きている訳なんですから、そう言った中で「法門無尽誓願知」で、一生懸命仏教のことを勉強することを誓願してくださいと言うことなんです。
で、最後の「仏道無上誓願成」と言うのは先程申し上げました自己の、自分自身の心に対して誓いを立てて、先程申し上げた戒というもの、そういうものによって、心を清めてください。その澄んだ心を常に忘れないで何時でも周りの人に教えてあげて下さいと言うのが「仏道無上誓願成」なんです。ですから戒というのは自分の、先程申し上げた心の中から出て来るところの喜びなんです。自分から誓って戒める心の働きなんです。ですから人に言われたからどうのこうのではなくて、自分自身の心の中の誓いから出て来る行いであると言うこと。その清められた行いを常に忘れないで精進して下さいと言うのが「仏道無上誓願成」、それは限りなく死ぬまで続く修行ですよと言うことなんです。つまり仏道は無上にしてこの上ないもんですから、一生懸命最後まで頑張って精進して下さいよと言うことなんです。但しね、口で立派なことをおっしゃってもですね、なかなか出来ないのが世の常でございます。しかしですね、うまくしたことに、こういう戒というものが一人一人どうやったら身に付けられるか、ということを上手に教えて下さったのが日蓮聖人なんですね。で、日蓮聖人はどうおっしゃったかと言いますと、「信心が徹底すればその人の心の中に、戒が生まれ、戒体がそこに完成してくるんだよ」というようなことをおっしゃっています。信心を徹底すれば心の中に戒というものが生まれて来るんだよと。だから私達が仏法僧の三宝に帰依してですね、絶対の真心を得れば戒も自然に心の中から生まれて来るんです。そうすれば人からあーするな、こうするな、ああ、もう止めなさいなどと言われなくても自分の真心から清浄な行いとなって出て来るはずなんです。それでも、二十年三十年とお経を拝んでいてもね、家に帰れば嫁と姑でわたわたと喧嘩している人もいれば、親子で喧嘩したりと・・・これは未だ戒が出来ていない証拠なんですね。うわべだけの信心ということになるんじゃないかと思います。法華経を行ずる者の居るところがどういう場所であっても、常に寂光土の極楽であるんだよと、だからなにもカルト集団に入って行く若い人見たいに、何か感動的な体験したいとか、あーいうことをすれば何か生まれ変わって別の偉い人になったり、あるいは特別な超能力を持てるんじゃないかと考える必要は何もないんだよと。貴方が一生懸命清い真心で合掌し、ご本尊さんに向かって拝むならばその場所、その所がまさに極楽浄土であり、その中から自然と戒が生まれてくる、その戒の行いが周りの人達にも伝わっていくんですね、それは日蓮聖人がおっしゃっていることなんで「経のままに唱うれば曲がれる心なし」何か頭の中で別のことを考えながら南無妙法蓮華経と拝んでいるうちは、やはり邪な心しか出てこない。拝むときは、一生懸命に柔和な気持ちで至心に唱えれば、心の中に曲がれる心は一つも出てこない。真っ直で清らかな心が出て来る。まっすぐでない心の持ち主は、きっと一心に経のままに唱えていないと言うことになっちゃいますね。大曼荼羅ご本尊に向かってお題目五字七字南無妙法蓮華経と唱えるだけで自ずから戒体が生ずると言うことです。お祖師様が「今身より仏心に至るまで法華経の戒を自誓受戒する」と言うお言葉をおっしゃっております。法華経の戒ですね、自ら誓って戒を一心に受け入れるというようなことをおっしゃっています。要するに仏身を成就するまで一生懸命精進し、戒を身体に受け持って下さいと。私達の日常の信仰生活に当たりましては、お題目を唱えるときには、口ばかりでなく、身体と、心の三業わたってお題目の心をしっかりと受持し、そしてその戒体を常に忘れないように持つことが肝要ではないかと思うわけでございます。お祖師様は、又こうも述べられておられます。「仏法は体の如し、世間はかげの如し、体曲がればかげななめなり」とおっしゃっております。仏様の教えというのは丁度人間の身体のようなものであり、世間というものは丁度その身体の影のようなものであると、法華経の教えに背き、自分の心が曲がっているならば、ちょうど心を映す世間の教えも斜めになって曲がってしまうんです。一生懸命に身口意の三業にわたってお題目を至心に唱えるならば、曲がれる心もなくその中から清い心が生まれて来るわけです。そうしますと、人から法律で云々とか、或いは他人から倫理道徳をもってこーせ、あーせと言われなくても、自分の心の奥底から生まれたそういう戒体を通じて、私達が如法の生活を送ることが大事かと思います。
今はまことに厳しい時代です。出る杭は打たれますけれども、出ない杭も打たれるこの世でございます。ですから自らが黙々とお祖師様の言葉に則りまして、身口意の三業にわたり浄心の生活が送られるように、ちょうど今日のような暗澹たる気分の世界を払っていただけるような、そう言った気持ちで、どうぞ子供さんなり、孫さんになり、後に続く家庭の子供達にひとつ心の伝承というものを心にしっかりと植え付けていただければ有り難いことではないかなと思いお話し申し上げたわけでございます。
先程、法話の前にお話しがありましたけれども、丁度折しも立教開宗七百五十年を二年後に控えてございます。そう言った中で、本年は慶讃事業と言うことで十月の二十七日から二十九日までの間、管長猊下をお迎えしての東北教区大会、それから清澄山の慶讃団参という事を企画してございます。どうか一人でも多くの方のご参加を頂きまして、大変厳しい行程になっているようでございますけれども、自らのご修行ということで、ひとつ浄心の気持ちでご参加頂ければ有り難いと思います。大変時間も超過いたしましたのでこのへんで終わらせていただきます。どうも長い時間ご静聴有り難うございました。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経

