現代における菩薩行 of 日蓮宗秋田県教化センター


秋田の地より涌きいでて、
全国に、世界に伝えたい!

特別法話集「平成11年度東北教区教化研究会議 基調講演」

 この講演は、平成11年度(平成11年11月18日)福島県郡山市・ホテル西小野屋で開催された第18回東北教区・教化研究会議にて開催テーマ~現代における菩薩行~「ビハーラ活動を考える」での基調講演です。講演内容は、古河師の承諾のもと、開催地区担当の福島県教化センター長・伊藤寛祐師が収録、デジタル化したものです。
 会議資料に基づいての講演ですので、ここでは、その資料に沿って「小見出し」を付け加え、分かり易くしました。
 この素晴らしい講演を一人でも多くの方にご覧戴けたらと念じます。                               日蓮宗秋田県教化センター長  小倉孝昭

「現代における菩薩行」 ~ビハーラ活動を考える~

東京都目黒区常圓寺住職 古河良晧 上人

日蓮宗医療問題研究会委員、お題目総弘通運動推進本部企画会議委員

皆様こんにちは、ご紹介頂きました東京都目黒の常圓寺の住職をしております古河良晧でございます。本日はお招き頂きまして誠にありがとうございました。ご案内のように日蓮宗医療問題研究会の方にも関係させて頂いておりますので、毎年2月に行われますビハーラ講座の運営をさせて頂いておりますが、今日はその講座にお出になられた方々もいらっしゃいます。そういった方達を前にしてお話するのは大変緊張してしまいますが、どうかこれから1時間半にわたりましてお付き合いの程、お願いいたします。



◇ 現代における菩薩行

   仏教者の社会活動

先程、センター長の伊藤上人からもお話がありましたが、確かに今の仏教界は地盤沈下していると言えます。世間からも遊離し、距離があまりにも開いている。特に若者離れという事は、非常に深刻な問題であります。そうした私達の既成教団というものが、社会から期待され、社会に信頼されるような仏教教団としてどうあるべきなのか、そういった観点からお題目総弘通運動ではただ今運動の柱の1つに社会教化活動を取り上げ、それに力を入れています。私達が社会の中で仏様の教えを担い、実現していく事が、現代の菩薩行の実践であると考えているのです。

今日頂いたテーマが〈現代における菩薩行・ビハーラ活動を考える〉ですが、私はこのテーマは大変素晴らしいと思います。まさに、このテーマの中に全てが集約されているといっても過言ではありません。なぜならば法華経は、「教菩薩法 仏所護念」と説かれています。すなわち、菩薩の法を教え、仏様が護念する所の教えがこの法華経であり、法華経は菩薩行を説いた経典であると理解できるのです。とりわけ法華経の精神に基づいた菩薩行、これはご承知のように常不軽菩薩の仏性礼拝であり、さらに従地涌出品に登場する地涌の菩薩の行法です。その常不軽あるいは地涌の菩薩こそ、法華菩薩であります。そうした自覚に私達が目覚め、その精神を現代社会に実現していく。一般に大乗仏教で菩薩の修行は、「上求菩提 下化衆生」と言われ、「自利即利他」と言い、自分の利益である自利行がそのまま利他行であるとされます。私は逆だと思うのです。利他行即自利行である。私達が利他行を行う事、それがそのまま私達の自利になっていると私は思っておりますが、そのような観点から菩薩行としてビハーラ活動を考えていくというタイトルは素晴らしいと思いました。



◇いま、なぜビハーラか?

では、今なぜビハーラなのかという事について3、4点お話したいと思います。まず1点目は、中央公論の平成11年の11月号ですが、こんなタイトルで特集が組まれていました。【お寺がさぼっている】。これは養老孟司さんと無着成恭さんの対談です。「生老病死というあたりまえの事が皆問題だと社会で言われだした。これは本来坊さんが説教すべき事であって、医者が説教する問題ではないはずだ」と小見出しがついているんです。面白いですね。「お寺がさぼってるんだぞ、もっと頑張れ、元気出して社会の為に活躍しろ」と、私はこういう叱咤激励をされているんだと思っております。確かに、私達はご葬儀やご法事で内に向けられていた教師の目というものがございました。しかし、それも大事ではございますけれども、教師の目を外に向けて社会で活躍する、活動するという事を真剣に考えなければいけない時がきていると言えます。

次に、今日ご紹介しようと持って来たのですが、小原 信という方が書いた『ホスピス・いのちと癒しの倫理学』(ちくま新書)という本がございます。この方は、大学の先生で、恐らくキリスト教のご信者さんだと思います。この方が助産婦に対して、〈助死者〉という事を提案しています。本文中に、こんなくだりがございます。「これまで日本では宗教家が臨死者に親しく近づく伝統が乏しく、僧侶は死者を扱うが、臨死者に近づかないできた伝統が長いからである。僧侶が臨死者の助死者になりえないのは、民衆宗教としての日本仏教に残された課題であろう」とあります。現代は別にして、本当に宗教者が臨死者に親しく近づいていなかったでしょうか。しかも、歴史をひも解けばそうではない、という事を思い起こさなければいけないと思います。それはともかく、この方は助死者という死にゆく者の精神的、社会的、宗教的苦痛に関わる介護者という者をこれから作っていかなければならない。それには医療関係の人ばかりか、宗教者も参加しなさい、と言っているのです。これもビハーラ活動の一環だと私は思っております。

それから、この夏、私共は研修旅行を企画致しまして、台湾に行ってまいりました。3泊4日という非常に短い期間でございましたが、そこで台湾仏教の現状を視察させて頂きました。そして、台湾の国立病院における仏教者の活動というものを目の当たりにしてきました。それは後程時間があれば触れたいと思いますが、国立病院の中でさえも仏様をおまつりしたお堂があり、そこでは一般人のボランティアや僧侶が、患者さんや家族の為に精神的なケアをしている。その現状を見て、台湾は進んでいるなと思いました。またターミナルケア病棟とか、日本で言われているホスピス病棟は、日本などを見習って作っているのだそうですけれど、形は見習っても実際的な面ではどうも台湾の方が進んでいるのではないかな、という思いを持ちました。

ところで、我が国の社会で最近あった動向で面白いなと思った事がございます。それは週刊朝日に載っていた傾聴ボランティアのことです。魂の痛みをよく聴いてあげる、傾聴するボランティアというものが今活動を始めたという記事がございました。その一方で、朝日新聞ではおしゃべりヘルパーという記事もありました。こちらのほうは言葉の介護という事で、例えば寝たきり老人をひとりきりにしないでワイワイガヤガヤしゃべってその事が精神的なケアに繋がっていくというわけであります。

このように、ビハーラ活動というものが私達にとって今本当に切実な課題として浮かび上がっている、という事をご紹介してきたわけです。来年は20世紀最後の年、そして2002年は立教開宗750年を迎えます。私達はキリスト教でいうところのミレニアム、千年紀という大きな時代の曲がり角に立って、従来の旧態依然とした態度と価値観を改め、そして発想を大きく変えていかなければいけない。まさに仏教者の地盤というものを社会に確固としたものにするためには、将来を見据えた私達の新たな発想と活動が待たれていると思えてなりません。そういう観点からすれば、このビハーラ活動はその大きな柱の1つになりうるものであると私は思うわけであります。



◇ビハーラ活動とは

だいぶ前置きが長くなりましたので、これから本題に入りたいと思います。皆様にお配りしましたレジュメに沿ってお話を進めていきます。まずビハーラ活動とは何か、これを日蓮宗医療問題研究会では次のように述べております。

「医療や福祉や地域社会との連携のもとに、寺院において、自宅において、あるいは病院や施設において、病気や障害、高齢化に悩む人たちと苦しみを共にし、精神的、身体的な苦痛を取り除き、安心が得られるように支援する活動のことです。日蓮宗のビハーラ活動は、法華経安楽行品に説かれる安楽の供養をはじめ、六波羅蜜、四無量心、四摂法の実践であり、すべての人々が仏の教えにふれて仏になることを願い導く、法華菩薩行であると位置付けられます」というものです。

法華経、お題目の精神で心身の悩みに応えていこう。これがビハーラ活動でございます。このビハーラ活動に先駆けて皆様はホスピスという言葉をお聞きになられた事があるかと思いますが、先程ご紹介した本などもホスピスと書いてあります。これは元来、中世ヨーロッパにおける旅人や病人の安息や看護の為のキリスト教会や修道院などによる施設を意味したもので、近代医学の展開につれて病院に統合され、今日ホスピスと呼ばれる施設となったという事もご承知の通りだと思います。それに対して仏教を背景としたターミナルケア施設や関連の活動の呼称として、ビハーラが仏教界では用いられているのです。



◇ビハーラの用語の解説

そのビハーラの用語の意味はどんなものでしょうか。ビハーラというのはサンスクリット語ですが、「言葉の配置、散歩して気晴らしをする事、享楽する事、楽しむ事、静かにとどまること、休養の場所、僧院または寺院、を意味する」と辞書には書かれています。また漢訳経典には、行、行住、安住、精舎、僧房などと翻訳されています。

また、現代のサンスクリット語やヒンディー語では、プールなどがあって若い男女や子供達が遊ぶレジャーセンターをビハーラと呼んでおりますし、仏教の僧院もそのように呼んでいるという事が仏教辞典などにも説かれています。即ちビハーラの意味は休養の場所、楽しむ事、静かにとどまる事、あるいは僧院や寺院といった意味であるというわけですね。



◇「ビハーラ」と呼ばれた仏教施設の機能

レジュメにビハーラと呼ばれた仏教施設の機能について書いておきました。龍樹が紀元2、3世紀頃に著わしたと伝えられる『十住毘婆沙論』という論書がございます。この論書の一節にビハーラと当時呼ばれた仏教施設の機能が掲げられており、1番から10番まで書かれています。そのうちの、1、病人に供給す、2、病の為に医薬の具を求む、3、病者の為に看病人を求む、4、病者の為に法を説く、という4番目までは、医療あるいは病者の為に仏教者が関わっていく場所としての機能を仏教施設が持っていた事が書かれているのです。

このように仏教が起き、大乗仏教が盛んになってきた中で、僧院と呼ばれるお寺の機能に、既に病人に対して看護、ケアする、という機能を有していたという事が知られます。

まとめてみますと、ビハーラ、僧院というその言葉の中に、修行に疲れた体を休めて癒し、あるいは病気になった僧侶を看病して安楽をもたらすという意味が込められていたという事が知られます。私達はそれに活動という言葉をつけまして、ビハーラ活動とは仏教のこうした精神に基づいたターミナルケア、福祉活動の実践、関連の活動として用いるというわけであります。このような意味で、ビハーラという言葉をご理解いただけるかと思います。



ビハーラ活動の理念

◇ 仏典、ご遺文に見るビハーラ精神

 ①原始仏教経典 

では次に私たちが仏教徒として取り組む為に、ビハーラ活動の理念と実践という事についてお話を進めたいと思います。そこでまず仏典やご遺文に見るビハーラ精神というものを少し見ていきたいと思います。原始仏教経典の『スッタニパータ』は、仏陀の言葉を収録した最古の仏教経典として知られています。そこにはこんな一節がございます。「あたかも、母が己が独り子を身命を賭して護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみ)のこころを起すべし」。ここには、慈悲心の実践という事が勧められています。

また『ジャータカ』は釈尊の前世の物語、本生譚でございますが、その一節に「恩を知り、恩を感じる賢き人、善き友を堅く信じる賢き人、苦しみある人に、敬いつつ、なすべきをなす、そのような人を善人という」とあり、苦しみある人になすべき事をなす。そのような事が大切であると記されております。

『増一阿含経』には、「もし、病の比丘に弟子なくば、まさに衆中において次を差(つか)わし病人を看せしむべし。しかるゆえんは、これを離れおわりて、更に施さるるところの福は、病の人を視るに勝れるを見ず。それ病を瞻(み)る者は、我を瞻ると異なることなし」といって、看護する事の大切さが説かれております。

次に『大パリニッバーナ経』の日本語の訳に『ブッダ最後の旅』という、先頃お亡くなりになられました中村元先生が翻訳された岩波文庫本がございます。これは仏陀入滅前後の模様を描いた経典で、仏陀と弟子のアーナンダとの間で、看取りのあり方や、残された者への癒しなどについての会話が交わされております。即ち仏様がいよいよ亡くなっていく数ヶ月間の記録を記述して経典としてまとめたもの、これが『大パリニッバーナ経』です。そしてその中にはお釈迦様自らの死期の予告、発病、臨終の準備、葬送の方法の指示、残される者たちへのさとし、臨終のことば、入滅など、このような内容が説かれていますから、これらは今日においても大切な示唆を私達に与えてくれているものと思います。詳しくは是非『ブッダ最後の旅』という岩波文庫本を求められて、ご覧になって頂ければと思います。

 ②大乗仏教経典

次に大乗仏教経典に移ります。代表的な経典を幾つかひろいました。まず『維摩経』です。「一切衆生病めるをもって、このゆえにわれ病む。もし一切衆生の病滅すれば、すなわちわが病滅せん」。いわゆる、衆生病むがゆえに我病むとお釈迦様が述べられた事はよく知られているところであります。一切衆生が病んでいるがゆえに仏様も病んでいらっしゃるのだから、一切衆生の病を滅すれば、この病というのは身の病ばかりでなくて心の病も含めてですね、私の病は滅するのだという仏様の願いが込められているのです。

次は『梵網経』です。「なんじ仏子、一切の疾病の人を見ては、常にまさに供養すること、仏のごとくしてことなることなかるべし。八福田の中には、看病福田は第一の福田なり。…百種の病苦に悩むときは、皆養いて差(い)えしむべし」。ここには病気に罹っている人を見たならばその人を看病してあげなさい、福行を為す対象を福田と言いますが、その八つの福田、八福田の中で看病福田は第一の福田であり、功徳が得られるのであると、看病の大切さについて説いているのです。

『勝鬘経』には、「みずから己がために四摂法を行ぜず。一切衆生のためのゆえに、無愛染の心、無厭足の心、無*礙の心をもって衆生を摂受せん。…もし孤独、幽繋、疾病、種々の厄難、困苦の衆生を見れば、ついにしばらくも捨てず。必ず安穏ならしめんと欲し、義をもって饒益し、衆苦を脱せしめ、しかるのちにすなわち捨せん」とあります。ここにも布施、愛語、利行、同事という四摂法をもって、孤独の人や疾病の人たちをなぐさめ、安心をもたらし、安穏ならしめなさいといった事が仏様の教えとして説かれています。この『勝鬘経』には十大願が説かれており、そのうちの第八願には病に悩める者を見たならばその苦しみを救うべき事が説かれています。仏教の教えの中に、病に悩める者の苦しみを救う事が示されている事を、私達はこうした経典から読み取れるのです。

『華厳経』には、「善男子よ、我(れ)一切衆生の病を知れり。…是の如き等の類の一切の諸病を、我(れ)悉く了知し、其の所応に随ひて皆能く*治す。善男子よ、十方の衆生の諸の病有る者、来りて我が所に来詣せば、我悉く能く治せん。」と記されていて、病者に対する医療などについて説かれています。

この他あげればきりがないのですが、経典ばかりでなく、論書あるいは戒律などには例えば病気の原因ですとか、病にかからぬ様々な方法などが広範囲に説かれています。こういった事からみても、お釈迦様の時代から、そしてそれ以降も病者に対する仏教者の修行、仏教者のなすべき事は、大変密接な関係にあったという事を知って頂けると思います。

それでは次に私達の所依の経典であります『法華経』の中からビハーラ精神について二、三ひろい、安楽の供養、弘経の三軌、良医の譬え、それから仏性礼拝などを少しご説明したいと思います。

冒頭に申し上げましたように、ビハーラ活動とは『法華経』安楽行品に説かれる安楽の供養をはじめ云々とありましたが、その出典が実はここでございまして安楽行品第十四には四安楽行がございます。身・口・意・誓願の四つですが、その中でとりわけ口安楽行、ここのところを記入しておきました。「他人及び経典の過失を説かず、法師を軽んぜず、他人の好悪長短を説かず、…菩薩は常に安穏ならしめんことを楽って法を説け。微妙の義をもって和顔にして、ために説け。…諸の憂悩を離れて、慈心をもって法を説け。…願わくは仏道を成じて、衆をして亦、爾(しか)ならしめん、とのみ念え。これ則ち大利ある、安楽の供養なり」とあります。

ここに私達のビハーラの精神があると言えるでしょう。菩薩は常に安穏ならしめん事を願って法を説け、和顔であれ、慈心をもって法を説け、そういった事が安楽行だというわけでありますが、僧侶としての心構えであり、私達の姿勢でもあるわけです。ビハーラ活動を行う際に、このように安楽行は病気や障害、高齢化などで悩み苦しむ人々にとって、仏様の教えに触れて真に安楽に導く為の手段、あるいは心構えの指針になるというわけで、ここのところを我々日蓮宗のビハーラ活動における一つの指針として取り上げておきます。

次に弘経の三軌ですが、これは弘経者の三つの規範という事です。これも病気や障害、高齢化というビハーラ活動の中で、そうした人達に接する心構えとして受け止めるとどうなるかというと、如来の衣は柔和忍辱の心であり、複雑な人間関係の中で人に接すべき精神として常に柔和忍辱でなければいけない。そして如来の座は分かり易く言えば我見、我執を離れて無我になっていく、無我の気持ちで相手と接するという意味です。如来の室は、言うまでもなく慈悲の心をもって接するということですから、弘経の三軌がそのままビハーラの三軌にもなるのであります。

それから次は良医の譬えでございます。如来寿量品の「譬如良医 智慧聡達 明練方薬 善治衆病」の経文は皆様よくご存知でしょう。そして「是好良薬 今留在此 汝可取服 勿憂不差」と説かれ、仏陀である良医が煩悩の毒にあたった我々衆生を治療するように、私達もまた人々の病や悩みを癒す努力をしなければならないだろう。その一方で末法に留め置かれた大良薬であるお題目を信じ、受持する事こそ、根源的な真の救いである成仏への直道であると知らしめる事が、我々本宗教師の役目であり、この良医の譬えもビハーラ活動にとっては大切な指針でございます。

次は仏性礼拝です。常不軽菩薩品の有名な経文、「我深く汝等を敬う、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」。これはご承知の通り常不軽菩薩のご修行でございます。そこには仏性礼拝、人間尊重と平等感、そして折伏逆化といった事が説かれております。まず仏性礼拝について考えてみるならば、人は誰もがみな成仏できるという事であり、病者などに対しては仏性の自覚を促し、成仏の励ましや死後の安心を与える事に通じます。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の中でもこうした事がうたわれておりますし、あるいは後程触れたいと思います綱脇龍妙上人のご活動にも見られるように、まさに仏性の礼拝は、単に身の病を治すだけではなくて、心の病を治す、仏性を開く事によって本当に心から救われていく、身も心も救われるそうした教えはこの法華経の常不軽菩薩の仏性礼拝にございます。

その事は2番目の人間の尊重と平等観に関連します。人は誰もが等しく仏性を備えており、それゆえ尊く、分け隔てはない。いかなる病人、障害者、高齢者に対しても敬いの念を忘れずに平等に接するべきである。この部分が大切でございます。私はこの仏性礼拝の常不軽菩薩の姿勢こそ、本宗におけるビハーラ活動の原点ともいうべきものではないかと考えております。この事は大変重要なポイントであると思います。

最後の折伏逆化についてですが、日蓮聖人が常不軽菩薩の忍難をもって心の糧とし、その折伏行を継承した事は皆様もよくご存知だと思います。そこでビハーラ活動でも未信、不信の病者、障害者、高齢者に対しても仏性礼拝、人間尊重を心掛け、可能かつ許される範囲内で下種結縁の思いを胸に抱いて接する事が必要であると思います。ただしビハーラ活動を実際に行う上では、病院や高齢者の施設での制約を受ける事もございますので、折伏一辺倒というわけにはいかないという事も心得ていなければならないと思います。

このように法華経の教えの中から、安楽の供養、弘経の三軌、良医の譬え、仏性礼拝など、こういった事を自分達がビハーラ活動に臨む心構え、精神として汲み取りたいと考えております。

それでは次に日蓮聖人のご遺文について少し触れたいと思います。レジュメには、①よろこび、はげまし、やすらぎ、安心をもたらすご遺文の引用と書いてございます。ビハーラ講座を受講された方はご存知かと思いますが、日蓮聖人遺文におけるビハーラの精神という講義もございます。詳しくはそうした講座にご参加頂ければよろしいかと思いますが、ここでは二、三取り上げておきました。まず、病は仏のはからい、病で菩提心が起こる、について説明します。「このやまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経、涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はをこり候か」(妙心尼御前御返事)。これは日蓮聖人の病気観と申しましょうか、それが如実に表れたところであります。私達が病者に接する折に、病というものをどのように受け止めていくのか。そうした事をこのような日蓮聖人のお言葉をお借りして伝えていく事は、病者にとってよろこびやはげまし、あるいはやすらぎ、いやし、そして安心につながるものであります。

次に看病の心得・笑みを与える、についてです。笑みを与えるというのは、和顔施という事です。「父母の孝あれとは、たとひ親はものに覚えずとも悪さまなる事を云うとも、聊かも腹も立てず、誤る顔を見せず、親の云う事に一分も違へず、親によき物を与へんと思ひてせめてする事なくば一日に二三度えみて向かへと也」(上野殿御消息)とあります。看病の心得、これは笑みを与えるという事がその基本だろうと思うんですね。後程お見舞いという事について触れたいと思いますが、人の穏やかな笑顔そのものが、病室で苦しみ、あるいは障害に苦しむ人達の心にすーっと入っていく、通じていくものがある。実はそのほほ笑み、笑顔というものだけで充分だと言えば言い過ぎかもしれませんが、私達は常日頃からのそうした態度、心構えというものが大切であるという事を日蓮聖人のご遺文を拝して思い起こしたいものです。

その他、関係するご遺文は多数に上ります。例えば命についての尊さを説き、あるいは法華経信仰の中での病気との関わり、病者に対しての心構え、お母さんの病気の祈願など、様々なご遺文があります。きっと皆さんも色々な御書をお読みになる中でお感じになる事があることと思いますが、冒頭に申し上げましたように、よろこび、はげまし、やすらぎ、安心をもたらすそういった御遺文を皆様方も心がけて集められ、日蓮聖人の教えにもとづいてビハーラ活動を進めていく事が大切であると思います。

もう一つ、日蓮聖人のお教えである代受苦について触れておきます。これもビハーラ精神の大きな柱の一つであると申し上げたいと思います。苦しみを共にする、共感する、苦しみを共に背負う、苦しみを代わって受ける、これが代受苦であります。「諸大菩薩は本より大悲代受苦の誓ひ深し」(祈祷抄)、「日蓮云く、一切衆生の同一の苦は悉くこれ日蓮一人の苦と申すべし」(諌暁八幡抄)。この日蓮聖人の代受苦の精神は、まさに末法の時代において法華経を流布すべきご自覚に立ってのお考えです。代受苦の精神は、末法の時代に法華経を弘めるようにお釈迦様より使命を託された地涌の菩薩の精神であると、私は理解しています。

先程の仏性礼拝の常不軽菩薩、そして代受苦の精神を担う地涌の菩薩、この法華経の精神に基づいた常不軽菩薩、地涌の菩薩の精神こそ、本宗におけるビハーラ活動の根幹に据えるべき精神であろうと私は考えています。ただし私達が、この代受苦を実践する事は実に困難が多いものと思いますが、末法の時代に法華経を弘めていくという事はそういうものなのだと受け止めなければならないと思います。

以上のように、仏典や日蓮聖人のご遺文からビハーラ精神というものを汲み取って頂きました。



◇仏教に説くビハーラ活動の理念

次は、もう少し幅広く仏教一般に説くビハーラ活動の理念について考えてみたいと思います。

そこで慈悲心、六波羅蜜、四無量心、四摂法、福田思想などについてお話を進めたいと思います。これらの教えは、宗学の立場ではあまり重要視されないかもしれませんが、一般仏教の立場では基本的な教えとして知られています。

慈悲心は抜苦与楽というわけですから苦を抜き、楽を与える。法華経の寿量品の中にも毎自作是念の大慈悲心が説かれております。ビハーラ活動を行う上で、この慈悲心は大きなバックボーンであります。それから六波羅蜜は法華経には序品、化城喩品、提婆達多品、常不軽菩薩品などにも説かれています。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧のそれぞれにビハーラ活動との関連が説明できますが、とりわけ私は布施行、ことに法施、財施、無畏施と言われる中の無畏施をここに記しておきました。無畏施というのは畏れを取り除いて、安らぎを与える事です。その上で法華経を信受し、題目受持による究極的な安心に導く事を目指して、法施を行う事が求められているというわけです。この無畏施については、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の中にもうたわれているところだと思います。

次に四無量心に関しては、法華経では提婆品や妙荘厳王本事品に説かれており、慈・悲・喜・捨の四つの心です。ひとに楽しみと安らぎを与えようと願う心の慈、ひとの苦しみや悲しみを取り除こうと願う心の悲、ひとの楽しみや喜びを共に喜ぶ心の喜、好き嫌いによってひとを差別しないことの捨、この四無量心を念頭において、その人達の悩みや苦しみを取り除き、楽をもたらすために努力しよう。その結果安楽を得た事を喜び、しかもだれかれ分け隔てなくこうした思いを持つ事が大切であり、これらが四無量心を実践することになるのです。

それから次は四摂法です。法華経では提婆品に説かれていますが、四摂法というのは菩薩が衆生の心を引きつけて親愛の心を起こさせ、信頼され、最後には仏道に引き入れるための四種の行為をいいます。仏教に縁の無い人に仏縁を結ばしめ、そして仏道の中に導く、これが摂法なんですね。それには四つの方法があります。布施、愛語、利行、同事です。布施はよいものやよいこと、正しい教えを施す事。自分の力を分け与えることであります。その事が人々を仏教の方にまず顔を向けさせる、あるいは仏教の方に関心を持たせるという事に通じます。そして愛語、すなわち優しい、心なごむ言葉をかける。ついつい私達は忙しい時など言葉が粗暴になりますけれども、僧侶たるものはいつも心和む優しい言葉づかいをしなければいけないと思っています。こうした仏教の教えを学んで、自分の姿勢を改めようと思います。次の利行は、利他行の事です。人のために尽くす、ということであり、特に大乗仏教の菩薩の精神が利他行ですから非常に重要な事です。次の同事、これも重要な教えです。苦しみも楽しみも、分かち合う。他人と協力する。相手と同じ立場に身をおくこと。これは共感という事に通じます。苦しみも楽しみも分かち合う、まさに共感する事です。他人と協力する事、こうした点から同事の教えを国際協力活動を実施する際の精神として受け止める事もできるでしょう。あるいは相手と同じ立場に身を置くということから、レジュメに法華経信解品の長者窮子の譬えを出しておきました。長者がさまよっている窮子を見かけた時、窮子はたいそうみすぼらしい格好をしていた。そこで自分も同じようにみすぼらしい格好をして、その窮子に近づき語りかけ、だんだんに引き入れていった。相手と同じ立場、同じ目線に立つ、という事だと思います。

そこでビハーラ活動を実践するうえで四摂法を考えるならば、布施行はおくこととして、愛語の実践は深い理解にもとづいた優しい言葉や励ましのことばであります。病める人にとって何にも代え難い良薬でありましょう。心が和むことでしょう。その逆に先程申しましたように思慮に欠けた言葉、あるいは相手の心を傷つけるような言葉は注意しなければなりません。

それから利行の実践では、身口意の三業にわたって人の為に尽くす事です。実際には我が身を用いて介護をしたり、痛む所を手でさすってあげたり、患者さんの手を握ってあげたりする事です。あるいは口業による実践は相手の立場に立って慈愛に充ちた言葉をかける。意業の実践とは病人の当病平癒や気力安穏を祈念する事、「現世安穏 後生善処」を祈る事、こういう事ですね。同事とは、病気や障害、高齢化に苦しむ人達の苦しみや痛みに共感する事こそ、ビハーラ活動における同事ということだ思います。これら四摂法の教えは、ビハーラ活動の基本的な理念と言えるでしょう。

最後に福田思想について簡単に申します。福田とは善き行為の種子を蒔いて、さとりの功徳の収穫を得る田地という意味です。大乗仏教では、仏教の社会的実践として展開してきました。貧窮田、看病福田など、という事です。仏教福祉関係の本などを見ますと、必ずこの福田思想が出てきます。あまり日蓮宗では福田という事を言わないのですが、いわゆる困窮者、困窮している人、あるいは病気に苦しむ人、そういった人達を福田であるとみなしてそういう人達の為に、自分達が身を投じて助けていく、安穏ならしめるというのがこの福田の思想です。

以上のように抜苦与楽の慈悲心や布施、利他の精神、福田思想などが、ビハーラ活動の理念であり、日蓮聖人の説かれた代受苦の精神や共感の姿勢も重要なのであります。これらは大乗仏教に説くところの菩薩行そのものなのです。私はビハーラ活動が現代における菩薩行であるという、今日のこのテーマが全てを言い尽くしていると申し上げましたのは、実はここにあるのです。とりわけ本宗では常不軽菩薩の仏性礼拝、あるいは地涌の菩薩の代受苦の精神が、大きな柱であると申したいと思います。



法華経に説く生命観

◇仏典に説く生命観

次に生老病死の苦しみから逃れ、安穏な境地に導く事をビハーラ活動というならば、その生老病死を貫いている生命とは何か、この事を私達自身が考える事もビハーラ活動を進めていく上で必要ではないかと思います。私達の命とは何か、人生の目的とは何か、これを考える事が実はビハーラ活動の出発点であり、また最終点ではないかと思うので、次に法華経に説く生命観を中心に少し話をさせて頂きます。

法華経に説く生命観の前に、まず一般仏教の生命観を概観します。『大集経』には「精血二滴、合して一滴を成ず。大きさ豆子の如し、歌羅羅と名づく」と説かれてあり、精血二滴が合して一滴を成ずる、大きさは豆粒のようなものであって、これが生命の誕生だというのが仏教の生命の見方であります。そしてその生命が次に「この身に関して智慧豊かな人は説きたもう。三つのものを離れたならば、色かたちは棄てられたのだと観ぜよ。その三つとは、寿命と体温と識別作用である。もしもこの三つがこの身を離れたならば、身体はうちすてられて横たわり、精神のないものとして、他者の食物となる」と『サムユッタニカーヤ』に説かれています。仏典では生命というものは、寿・寿命、煖・体温やぬくもり、識・識別作用、この寿、煖、識の三つが調和している状態であると捉えています。そこでこれがバラバラになってしまった状態は死を意味するというのが、仏典に説くところの生命観なのです。これは非常に抽象的な概念ですから、今日問題になります臓器移植における脳死が人の死かどうかという事などについては、充分に答えることはできません。しかし基本的なところは、ぬくもりがあり、そして識別作用があって、寿命がある。寿、煖、識の調和している状態であると覚えておいて下さい。



◇原始仏典に見る来世観

次に、亡くなった後には死後の世界があるのかどうか。一般に釈尊は、死後については無記とされたと伝えられています。きっと皆様も、そういうふうにお聞きおよびではないかと思います。無記というのは、善でもない、悪でもない、記する事ができないという事です。しかし、次の『スッタニパータ』に説かれた二つの文章は、そうした観点とは異なり、言わば来世についての記述がございます。「信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれらの四種の徳があれば、かれは来世に至って憂えることがない」。このように原始仏典にはお釈迦様の教えとして、在家の信者は誠実、真理、堅固、施与という四つの徳があれば来世に至って憂える事がない、という来世の存在を説いております。また次の引用には、「法に(従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように暮らしている在家者は、(死後に)『みずから光を放つ』という名の神々のもとに生まれる」、とあります。

このようにお釈迦さまは、死後の世界を在家の信者には説いておられました。それがもう少し時代を下ってまいりますと、輪廻転生といった生命観になってまいります。



◇倶舎論に説く中有の九門分別

3番目は『倶舎論』に説く中有の九門分別でございます。これは世親が著わしたものですが、その巻の第九・分別世品第三の二に、死んでから次の生を受けるまでの中有の姿、死後の姿はどんなものか、諸経の説を九種類に分類して説かれています。これを一つ一つ説明すると時間がかかってしまいますので申し上げませんが、一例を言いますと死後の人間の身はどんな固い物質の中も自由に通過できる、といった事が説かれています。つまり死後の世界については、経典や論書にも様々なことが示されているという事です。



◇仏教で説く生命観の特色

仏教で説く生命観の特色としては、二つございます。一つは空間的な広がりの生命観、一切衆生悉有仏性や草木国土悉皆成仏と言うように、生命通底の思想を仏教の生命観に見る事ができます。もう一つは時間的なつながりの生命観です。すなわち輪廻転生の思想です。これら二点が仏教に説く生命観の特色であると、一般に言えると思います。そうしたものからさらに、私達の信仰する法華経の生命観について入っていきたいと思います。



◇ 法華経に見る生命観

①法華経経文中に示される輪廻の生命観

それでは法華経に見る生命観とはどういったものか、三点ほど上げました。一つは輪廻の生命観、二番目には久遠の生命、三番目には久遠本仏の生命と我々の生命との関連といった事で、お話を進めたいと思います。まず輪廻の生命観ですが、経文をひろい上げれば沢山あるんでしょうけれども、レジュメには何点か載せておきました。「我知んぬ。此の衆生は未だ曾て善本を修せず。堅く五欲に著して癡愛の故に悩を生ず。諸欲の因縁を以て三悪道に墜堕し、六趣の中に輪廻して備さに諸の苦毒を受く」。これは方便品に説かれています。このように六趣の中に輪廻して云々とか、あるいは譬喩品には汝は未来世において云々とか、化城喩品には世世に生るる所、世世というのは生まれ変わり、死に変わりという事です。そして随喜功徳品にも同様の事が書かれておりまして、これらの法華経の経文中にも輪廻の生命観を見る事ができるのです。もちろん日蓮聖人の開目抄などの御書の中にも、輪廻転生は説かれています。

②如来寿量品に説示される久遠の生命

次に如来寿量品に説示される久遠の生命、これもよくご存知の事でございますが、五百億塵点劫の譬えがございます。これは本仏の久遠実成という事が説かれています。本仏の生命は久遠、分かりやすく言えば永遠であるという事になります。

③久遠本仏の生命と我々の生命との関連

それではその久遠本仏の永遠の生命と我々の生命との関連はどうかと申しますと、レジュメに書きました父子の関係がございます。それは譬喩品にいくつも出てまいります。「われは、衆生の父なれば、応にその苦難を抜き、無量無辺の仏の智慧の楽を与え、それに遊戯せしむべし。…」とか、あるいは「その中の衆生は、悉くこれ吾が子なり」という欲令衆で知られるところの経文があります。

如来寿量品の良医治子の譬喩によれば、そこには父子の関係が示され、「譬如良医 智慧聡達 明練方薬 善治衆病 其人多諸子息…」とございます。これも良医である父親と毒におかされた子供たちは、父子の関係であるという事が説かれています。そうした点からすると、久遠本仏と顛倒の衆生である我々の関係が知られてくるのです。

 ④法華経と日蓮聖人の教えにもとづく生命観

以上、これらをまとめて法華経と日蓮聖人の教えに基づく生命観といった事で考えてみるとどうでしょう。私の命とは一体何なのか、人は何のために生きるのか、人生の目的とは何か、これらを考える事がビハーラ活動の出発点であると申しましたが、それを法華経と日蓮聖人の教えに基づいて考えてみますと、次のように1から7の項目に分けて理解することができると思います。

1.久遠本仏の永遠の生命

先程申しましたように、まず久遠本仏の永遠の生命です。法華経の教主、久遠の本仏釈尊の生命は、永遠不滅であると如来寿量品に説かれています。

2.輪廻転生する我々の生命

そして輪廻転生する我々の生命。我々人間は六道の世界を輪廻転生している。

3.霊山往詣

しかも我々法華経を信仰する者は、その功徳によって霊山往詣をする。現世においても、あるいは死後においても霊山往詣をすると日蓮聖人の教えには説かれています。

4.仏子としての自覚

それから先程来申しましたように、我々は仏子である。そして釈尊は父親であり、我々は仏子として本仏と父子の関係にある。我々人間を含めてあらゆる生きとし生けるものの生命は、み仏の子として久遠本仏から授かったものである。それゆえあらゆる生物は久遠本仏の永遠の生命に連なり、等しく尊く悉く成仏する、と譬喩品に説かれています。我々の生命は久遠本仏の永遠の生命に連なっており、我々は仏様の生命を頂いているのです。

5.生命の調和

次にあらゆる生命はお互いにすべての生命とも連なり、支え合い、活かし合っており、本来は調和している。これは日蓮聖人のお説きになられた一念三千の教えから言える事であります。我々は仏子としてお互いに等しく仏の生命を頂き、連なっている。そして支え合い、生かし合っている。本来は調和しているもの。これが一念三千の世界です。しかしその調和をかき乱しているのが私達の貪・瞋・痴の三毒であったり、煩悩であります。そうしたところで生命の調和という事を考えるならば、命を支え合うという事こそビハーラの精神でありましょう。まさにこの法華経の教えの中に命を支え合うというものを汲み取る事ができるわけですから、そこにビハーラの精神というものが根付いているわけです。これもまたお互いに命を支え合い、生かし合い、拝むという事で仏性礼拝に通じるものであります。

6.人生の目的と本仏の誓願

人間として生を享けたのは、「衆生を愍むがゆえ」と法華経の法師品に説かれています。衆生をあわれむこと、このことこそこの世に生を受けた目的であると法華経には説いてあるのです。そこで我々は全ての生きとし生けるものをあわれみ、等しく仏にするという願い、まさにそれは久遠本仏の誓願であり、方便品に説かれたその誓願を満足させる使命を担ってこの世に生を受けているのであると捉えるのが、我々法華経信仰者のあり方ではないかと思います。

7.地涌の菩薩の自覚

衆生をあわれみ、本仏の誓願を満足せしめる使命を担うがために人々を敬い、仏性礼拝し、自らの修行とするところに常不軽菩薩の修行がでてくるわけですね。そうした常不軽菩薩の礼拝行の一方で、地涌の菩薩としての自覚がなければならないのであります。この末法の世に法華経を弘め、衆生をあわれみ、本仏釈尊の誓願を満足せしめるために、地涌の菩薩の自覚に立たなければなりません。これがまさに末法における菩薩行であり、先程申し上げました日蓮聖人の代受苦の教えであり、我々の修行であろうと思います。

このように我々の命というものをどのように捉え、人間は何のために、何を目的として生まれてきたのか、そしてどのように死に、どこへ行くのか、この事を我々自身が正しく理解し、それを人々に伝える。これがビハーラ活動に臨む我々本宗教師としてのあるべき姿勢だと思います。

先程触れました助死者という提案をなさっている方はキリスト教の立場からそういう考えをお持ちでしょうが、我々本宗教師は今述べたように法華経の精神、日蓮聖人の教えにもとづいてビハーラ活動に取り組む事が、一番大切な事だと思います。

我々は、人は何のために生きているのか、という事を檀信徒の方々、あるいは病や障害に苦しむ人達のために、語り伝えていかなければならないでしょう。『五体不満足』という本が大変注目されました。「自分は不便であっても不幸ではない」と言いきったあの著者の姿勢、素晴らしいですね。あのような方に仏様の光、命の光というもの、仏性というものを感じるのではないでしょうか。命を見つめていく事こそ、まさにビハーラ活動の出発点であり、原点であると、ご理解頂けたかと思います。



ビハーラ活動の実践

◇仏教におけるビハーラ活動の歴史

次にビハーラ活動の実践についてお話を進めたいと思います。先程経典の中にビハーラ活動の精神がどのように記述されているかをご紹介致しましたが、仏様が世に出て仏教が説かれて以来、そうした営みは行われてきたわけであります。それを歴史的に言うならば紀元前3世紀、仏教に篤く帰依して仏教を保護したあのアショーカ王、既にアショーカ王は人と家畜のための2種の療養院、病人のための薬草の栽培をして、現実的な関わり方を行っていました。我が国においては仏教を導き、そして我が国に根付けた聖徳太子が、貧窮孤独者のための悲田院・施薬院・療病院などを四天王寺の中に設けていたという事で、仏教とこのような活動は切っても切り離せないものであったわけです。それから聖武天皇の皇后の光明皇后という方は、我が国への仏教の受容と社会福祉に大変尽くされた方であります。この人は東大寺に悲田院と施薬院を設けています。

歴史をひも解けば多々ありますが、近くでは我が宗が誇る綱脇龍妙上人がいらっしゃいます。常不軽菩薩の仏性礼拝とハンセン氏病の救済、深敬園の設立は皆様もご承知の所だと思います。綱脇上人は但行礼拝こそお題目の精神であるとしてハンセン氏病の人達に合掌礼拝し、仏性を開いてあげねば病だけでなく心も救われない。このように自ら誓われて、明治39年に日本初の私立のハンセン氏病患者の収容施設、身延深敬園を設立されました。そしてその運営のために自らも勧募に歩き、ハンセン氏病患者救済に生涯を捧げられた方であります。まさに仏性礼拝を身をもって実践された綱脇上人でした。

また、3年前に生誕100年を迎えた宮沢賢治さんは、世界に数々の作品が翻訳紹介されておりますが、あの『雨ニモマケズ』の中にはビハーラの精神が込められていると言えます。「東二病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ…、南二死二サウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイイトイヒ…」というわけですが、まさに北へ南へと奔走して自身がでくのぼうとなって人々のためにつくそう、中でも病気の子供があれば看病してあげる。あるいは南に死にそうな人があれば行って怖がらなくてもいいと言う、これはまさに恐怖心を取り除く無畏施の行いに他ならないわけであります。怖がらなくてもいいという事を言えるのは、法華経信仰に決定した宮沢賢治さんだからこそ言いえた言葉だろうと思います。私達本宗教師が法華経と日蓮聖人の教えによって自分達の命というものを確かに認めたならば、「怖がらなくて大丈夫だよ」と自信を持って言えるのではないかと思います。無畏施というのは、そういった観点から実践しなければならないと思います。



◇ ビハーラ活動の実践

①病者は宗教に何を求めるか

それでは次に、ビハーラ活動の実践をどのように具体的に行うかという事について、お話を進めたいと思います。レジュメには、1、病者は宗教に何を求めるか、2、法華経信仰と安心、3、お見舞い活動、4、傾聴ボランティアとおしゃべりヘルパーを書いておきました。まず病者は宗教に何を求めるか、ここには3点のポイントを指摘する事ができると思います。

1つは病気を治したい。そのための力になってもらいたい、という事です。病気の治療を願い、期待し、そして希望を持ち続ける事が大切であり、そこに宗教への期待が込められています。病者が宗教を期待する第一歩がここにあるわけです。

そして次に精神力を磨いて、たとえ死に至る苦しみでも、平静な心で受け止められるようになりたい。肉体的な苦しみの中にあっても精神的な安楽を求めたい。宗教との関わりがここにもあります。肉体の苦痛はお薬によってある程度は癒される。しかし心の痛みはなかなか癒されない、という事がよく言われますが、まさにここに宗教的な期待というものがあります。

3番目には死後の安楽を求め、安心を得たいということです。先程も死後の話を致しましたが、人間が亡くなったならばどうなるのか。2、3日前の新聞に、ある作家が奥さんの遺骨をアメリカのロケットで飛ばして宇宙葬にしたいという事が報道されており、この世から無くなってしまう存在なのだから、というような事がかいてありました。死んでしまえば全ておしまい、死んだらゴミになるという仏教にいう断見の見方もあれば、我々の命は永遠に続いているのだという常見もある。しかし仏教では断見も常見も共に否定したわけですね。仏教の生命観を誤りなく正しく伝え、仏様の教えにもとづいた真実の死後観、それによる安楽、安心を得たいと宗教に期待しているのですから、私達は法華経にもとづいた正しい死後観というものを伝えていく義務があり、勤めがあるのです。そこにお題目信仰へと導く我々の役割があるわけです。

このように病気を治したい、精神的な安らぎを得たい、そして死後の安楽、安心を得たいという事が、宗教に期待されるところであります。病気に罹った人達は、こういった思いで私達を見ているわけですから、それに応えるべく自分の力を発揮していかなければならないと思います。

②法華経信仰と安心

これについては、皆さんも様々な観点から安心というお考えをお持ちだと思います。私が申し上げるのは本当に簡単な事ですが、題目受持による本仏、諸尊のご守護と法華経信仰による霊山往詣であります。これを自分自身が信仰を通して納得する事が私にとっての安心でございます。分かりやすく言えば、現世安穏 後生善処という事であります。なぜこんな事を言うかといいますと、本仏への絶対帰依と地涌の菩薩の自覚によるご守護というものが大事だと、常日頃思うからです。それは本仏と私という関係抜きにして私自身は有り得ない。法華経というものはまさに本仏と私との関係の中にあると理解しています。そして日蓮聖人と自己の関係を知って、地涌の菩薩としての存在に目覚めていくべきであろうと思います。そこに、久遠本仏に見守られているご守護の実感、仏様に生かされている事に対する感謝の気持ちも生じてきます。この事が自らをやすらぎへと導くと思うのです。安心・癒しとは、本仏に対する信仰の中にあるのだ、という事を申し上げたいのです。

実は私は、30代の半ばに一度半月ばかり入院した事があります。下腹部が痛くなり、我慢できなくなってお医者さんに行きました。町医者の方に診てもらったら、「大した事ない、風邪でもお腹が痛くなる」というような事を言われまして風邪薬を頂いたのですが、どうも治りません。そこで次に国立病院に行きました。そこで診てもらいましたら、その日の内に入院と言われました。初めての入院経験でして、最初の夜はなかなか寝付けなくて、しかも病名を知らされませんでしたから一体何の病気なんだろう、と不審に思いました。大体人間はこういう時には悪い方へ、悪い方へと考えるものです。もうどうなろうとしょうがないのだから、私も日蓮宗僧侶の端くれであるならば本仏釈尊に我が身をお任せして、お釈迦様の御計らいにすべてを委ねよう、と自分でそう思いました。そうしましたところ、自分の心のもやもやしていたものがすーっと消えまして、まさに安心の境地を得たのです。

この事は自分にとってささやかな体験でしたけれども、そういった宗教的な体験、あるいは安心というものをだれもが大なり小なりお持ちだし、もっと素晴らしい体験を積んできているお上人方も大勢いらっしゃると思います。そういう事を檀信徒や周りの人たち、特に苦しんでいる人たちに伝えていくことが大切ではないかと思います。

ここでアメリカ社会における面白いデータがありますので、ご紹介したいと思います。三年程前に『タイム』というアメリカの雑誌に、「信仰と癒し」という特集が掲載されました。「精神性は健康を促進する事ができるか。医師は驚くべき証拠を見出しつつある」という小見出しがついており、1004人のアメリカ人の信仰と癒しに対するアンケートの結果が報告されています。個人的な祈りの癒しの力を信じますか、という問いに対して、イエスが82%。他者の為に祈る事が、彼らの病気を治療する助けになるとおもうか、イエスが73%。神は時々、重病人の治療に関与する事があると思うか、イエスが77%。祈祷師が、信仰とか手かざしを通して、人々を元気にする事があると信じますか、28%。もし患者が希望するなら、医師も患者と共に祈るべきだと思いますか、64%です。ノーの回答は省略させて頂きましたが、このように個人的な祈りや癒しの力とか、神に対する祈りというものが病気に影響力を与えていると考えるアメリカの社会では、病気の患者に対して信仰や祈りの効果というものを信じている傾向が強いのです。

一体この傾向はどこからきているのだろうか、そして日本の社会で同じ質問をしたらどうなるのだろうか、と考えてみました。きっと、神と自分との関係というものがアメリカ社会では根強くあるのではないかと思います。それに対して我が国は、仏教国と言いながらも仏様と我々の関係がそれほど重視されていない、その違いがあるのではないか、と思いました。

 ③お見舞い活動

さて、だれもが行うべきビハーラ活動の第一歩はお見舞い活動です。この事を皆様に是非実践して頂きたいと思います。『お見舞の手引き』という冊子が既に宗門で配られていまして、この中にお見舞い活動について詳しく書かれています。これをご覧になって頂きたいのですが、3段階に分けて説明されています。一つは情報の収集です。檀信徒や知人に、病気や寝たきりで苦しんでいる人がいるかどうか、という事です。私はお寺で年4回寺報を出していますので、ある時、寺報に書いた事があります。病気などで入院している人がいらしたら、是非お寺にご通知下さい、住職がお見舞いにあがります、と書きました。果たしてその結果はどうか、1年経ってもまだ1人からも連絡はありません。どうしてかなと思ったのですが、これは住職と面識があったり、言葉を交わしたり、信頼関係ができている人じゃないとなかなか呼んでくれないからだと思います。

私は総代・世話人さんや、信行会・学習会・万灯結社に参加している人達が入院すると、出来る限りお見舞いをするようにしています。ただしなかなか時間がとれないので、全部が全部ではありませんけど行くようにしています。そうすると、実に喜んで下さいます。その前にまず驚かれるのですが、とにかく住職が来たといってとても喜んで下さるのです。こうした事がやはり大事ですから、私は足を運ぶようにしています。まずは、情報収集が第一段階です。

第二段階は、お見舞いです。「服装、相手の希望を尋ねる、パンフレットなど」とまとめましたが、悩みや話を聴いてあげることも大切です。服装についても、台湾の病院では皆さん僧服でいらっしゃいましたけれど、日本ではまだ抵抗もありますので、私服でかまわないと思います。そしていきなり宗教的な話じゃなくて、お身体の具合はどうですかとか、世間話のような話をして、あるいは相手の希望を尋ねたり、パンフレットや仏教関係のものなどあれば置いてくるのもいいと思います。『み仏のはからいー病いをのりこえるためにー』といったものが宗門から出されていますので、活用して頂き、病気の方のお見舞いに行って頂きたいと思います。

お見舞い活動の第三段階は、「お守りの授与、お寺での祈願、ベッドで出来る写経、パンフレットや書物の持参など」です。私はお見舞いに行く時に、御札を持っていくこともあります。まず自坊のご宝前で毎日当病平癒のご祈願をし、ご本人にはこの御札は当病平癒のご祈願をしてきたものであり、これからも毎日ご祈願しますという事を申し上げて御札をお渡しします。そして御札を枕の下に入れておくように話し、お寺では一生懸命に当病平癒のご祈願をするから、あなたも寝ているベッドの上で、朝晩お題目を心の中でもいいから唱えて下さい、そして諸仏諸尊に見守って頂きましょう、という様な事をこれまでにお話させて頂きました。それから信仰的な本ですとか、関係の書籍を見繕って置いてくるという事も、よいと思います。

このように情報収集、それから実際のお見舞い、そして何回かお見舞いを繰り返していくうちにだんだんと病で苦しんでいる方達の胸の内を聴いてあげたりする。そして希望も叶えてさしあげる。その一方で、私達も祈りを込めていく、そういうお互いの関係がお見舞いの活動の中で行われていくとよいのです。

10月の初めに、檀家の世話人さんの奥さんから電話がかかってきました。以前からご主人が入院なさっていたのですけれど、とうとうICUに入ってしまい、お医者さんからも手の施しようがないと言われた、と奥さんのあきらめたような声が聞こえてきました。それを聞いてすぐさま病院に行き、3人しかICUには入れてくれないのですが、一生懸命手ご主人の手を握り、頑張って下さい、早く良くなって下さいね、と言いました。今、お寺では屋根替えの改修工事をしており、その事を常に心配して下さっている方でしたので、屋根替えが終わって完成した本堂をどうかご覧になって頂きたいという思いで、一生懸命、毎朝当病平癒のご祈願をさせて頂きました。また、度々奥さんには電話をして病状を伺いました。そうしましたら本当に有難い事ですけれども病状が好転し、先日退院することができたのです。

早速、ご自宅に訪ねました。あいにく休まれているとのことでお会いすることは出来ませんでしたが、その後奥さんからは、住職が自宅に来てくれた時は本人は陰で喜んで泣いていた、と聞かされました。

本当に私達が思いを込めて接すると、通じるものがある。これは先程のアメリカのアンケートにもありましたように、私達が祈れば叶うものも必ずある、という事だと思います。つい最近、そんな事を実感致しました。

 ④傾聴ボランティアとおしゃべりヘルパー

次に最近の傾向として、傾聴ボランティアとおしゃべりヘルパーというのがあるんです。これは『週刊朝日』11月5日号に載ったのですが、ご覧になった方はいらっしゃいますか。傾聴ボランティアとは、「苦しみを取り除く事はできなくても、心のうちを聴く事で苦しみを和らげることはできないか。死や老いに直面した魂の痛みに耳を傾ける、傾聴ボランティアという試みが始まっている」というもので、要するに、死や老いに直面した魂の痛みをよく聴いてあげる事です。「人は人生の最後に意味ある生を完成させたいという欲求を持ち、人生を振り返ろうとします。その時かたわらによき聞き手がいるならば、話す事でこんとんとしたその思いを整理する事ができるのではないか、自分自身の最後の仕事の支えになってあげられるのではないか」、という事を東海大学の村田先生という方が語っておられます。

その傾聴の技術は反復と待つ事、相手の言った事を繰り返してあげる事、聴いてあげてこちらからやたらと話し掛けない事。相手の言うべき事を聴いてあげる、これはカウンセリングの技術だそうですが反復と待つ事、その中に傾聴という事がある。この傾聴には援助するボランティアの側と、共に老い、いずれは死んでいくものという病者や高齢者への共感の姿勢があるんですね。これが今の医療や福祉に欠けている心の援助の一つのあり方ではないか、とその週刊誌の記事には書いてあります。だから一般の方達がボランティアとして傾聴して歩く、病室の枕辺に座って物静かにじっと耳を傾ける、これは先程来、私達がお話してきた癒し、安心、安らぎに通じるものです。我々もこのようでなければいけないですね、お坊さんはとかく喋りたがるのです。お坊さんは喋らない事も大事なのです。私達は常に布教というものを考えますから語りたい、しかし傾聴も大切であるという事でご紹介致しました。

それではどうしても喋りたいという人のために、おしゃべりヘルパーを付け加えておきます。これは言葉の介護とも言うべきものです。「病気の人を孤独にさせず、みんなでワイワイガヤガヤと話をする。それが寝たきりの生活を変え、痴呆の進行を食い止める。地域の元気な老人や主婦、若者らをおしゃべりヘルパーに登録して、行政が財政支援したらどうか」という提案が、朝日新聞の論説室というコーナーに載っておりました。面白いですね、傾聴とおしゃべりです。この両方が今の時代にそれぞれの役割分担で必要だという事ですね。



◇ビハーラ活動の実際

さて以上ビハーラ活動の実践という事で最も初歩的で基本的な事柄について触れてまいりました。次にビハーラ活動の実際という事で、今どんな事が行われているか少しご紹介致します。

一つは先程お話しましたように、実際に日蓮宗の僧侶が、病院などにお見舞いに行くお見舞い活動、あるいは病院だけでなく老人ホームとか特養、障害者の施設、そのような所に足を運んで、語り、あるいは傾聴している事が、今日、色々な場所で行われております。

それから2つ目には、病院におけるボランティアがあります。群馬県の本宗の青年僧お二人が、病院のボランティアをやっておられますのでご紹介したいと思います。国立西群馬病院でボランティアの資格を取得するには、講習を受けることが必要だそうです。それは講義と実習で、その後、レポートを出します。こうした講習を受けると、半年位でボランティアに登録されるとのことです。緩和ケア病棟、いわゆるホスピス病棟と小児病棟のボランティアがあって、そのお二人は緩和ケア病棟のボランティアの登録をなさっています。その内容は茶話会の時のお茶出しや、ロビーに来ることのできない患者さんの病室にお茶を運んであげるとか、庭の清掃、カラオケの準備、それから餅つきなどで、看護婦さんしかいない現場で、男手が必要な部分をお手伝いしているようです。

時には看護婦さんの方から、お坊さんだからいうわけで色々と尋ねたりする事もある。国立病院ですから、宗教色を出してはいけないと言われているそうですけれども、患者さんの中にも、坊主頭を見てやっぱり話し掛けてくれる人もいると語っていました。エプロンを着けてボランティア活動を行っている、こういう人たちが日蓮宗の僧侶の中にいらっしゃるのですね。実はこの人達は以前日蓮宗のビハーラ講座を受講した事がきっかけで、何か自分達にできることはないかと考えて思い立った事が、この西群馬病院のボランティアだったというわけであります。

次は、冒頭に触れた台湾の病院についてお話します。私達は2ヶ所ほど国立病院を回りましたが、両方とも僧侶が毎日のように詰めていました。そこには仏堂と呼ばれるお堂があり、仏様がお祀りされていて、誰でもそこで自由にお参りができます。そして仏教関係の図書も多数置いてあり、患者さんやその家族、あるいはお医者さんがそれらを読む事ができるようになっています。

このように、宗教が国立病院の中に入っており、仏堂とは別にキリストのお像を祀っているところもありました。ですから仏教徒、あるいはキリスト者のための祈りを込める場所というものが、病院の中に施設としてあるのです。

もう一つの著しい特徴は、助念です。助念とは念仏を唱える事を助けるという意味です。緩和病棟に入っている患者さんが亡くなりますと、日本ではいきなり霊安室に運ばれますが、あちらでは仏堂に運ばれてそこで24時間、一昼夜近くお念仏を唱えるのです。私達の感覚で言えば臨終経のようなものでしょうか、それも遺族だけではなくてお坊さんが来て唱えたり、ボランティアの人達を集めて交代で唱えるそうです。そのようにして亡くなった方の供養をするというわけです。このような台湾の状況は、随分日本とは違うな、と思いました。



◇今後の展望

以上述べてきたようなビハーラ活動を実践していく上で、まず私達にできる事はお見舞い活動から始まって色々なボランティア活動などもありますが、最後に簡単に今後の展望を3点あげておきます。

まず1点目は、「お寺こそビハーラ」ということです。ビハーラというのは、僧院、寺院の意味が本来あります。それは、喜び・はげまし・やすらぎ・癒し・安心の場であるべきなのです。私達のお寺はこうしたビハーラの場である、いや私達のお寺こそビハーラそのものであるべきだ、という事が一点目でございます。

2点目はビハーラの施設と、いわゆるビハ-ラ僧の資格についてです。病める末期の患者さんが、本当に安らかに死を迎えることのできるような施設が宗門の中にできたら素晴らしい事だと思います。またキリスト教のチャプレンのように、学校や病院・刑務所などでは礼拝堂につく司祭あるいは牧師がいらっしゃいます。私達もビハーラ講座も始まりましたので、住職の仕事の合間に誰もが行う活動とは別に、より専門的な知識や経験を積んだビハーラ僧というような資格を設け、そうした人材を養成できるようになったら望ましいなあ‥、という事が2点目です。

それから3点目は、ビハーラ活動を実践している人、ビハーラ講座を受講した人たちのネットワークを作りたいと願っています。本宗の現代宗教研究所を中心として、そのようなビハーラの会のような組織ができたらよいと思います。そこが、お互いの情報交換や学び合いの場になれば、ビハ-ラ活動は益々発展するものと思います。



最後になりますが、現代の菩薩行としてのビハーラ活動、だれもが行うべきビハーラ活動と言うことを述べさせていただきます。言うまでもなく、私達僧侶は教化活動を行います。しかし直接の教化というものではなくても、痛み、病み、苦しみ、悩む人々のために安らぎや安心をもたらすための支援をする事がビハーラ活動であるならば、その活動こそ、今申しました現代における菩薩行そのものと言う事ができるかと思います。そうしたビハーラ活動を行う事は、私達自身が菩薩行を積ませて頂く事になるわけであります。

どうか皆様もそれぞれの場で、あるいはそれぞれの事情に応じて、今後、このビハーラ活動に取り組んで頂けますようにお願い申し上げまして、私の講演を閉じさせて頂きます。本日はご静聴、誠にありがとうございました。