日蓮聖人立教開宗750慶讃法話集(4)
| 平成11年度秋田県誓願大会法話 「私の誓願」 | |
| 秋田県能代市 本澄寺住職 柴田寛彦上人 | |
| プロフィ-ル |
S23年生れ |
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「私の誓願」柴田寛彦 宗祖日蓮大聖人ご妙判「光日房御書」に示して曰わく、「大石も海にうかぶ、船の力なり。大火もきゆる事水の用にあらずや。小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ。」南無妙法蓮華経。 皆さんお早うございます。早朝からのご参詣ご苦労様でした。私は能代から参りました、柴田寛彦でございます。これから四十五分間、今日の護法大会の出だしのお説教ということでお付き合いを頂きたいと思います。 今週の始め、九月の六、七、八日と清澄に行って参りました。宗門のお坊さん方の研修会があり、二泊三日で行って参りました。清澄には、研修会館が新しく出来まして、前の宿舎に比べればずっと良くなりました。冷暖房完備で立派な建物が出来ましたので、是非皆さん大いに清澄にお参りして頂きたいと思います。私たちも六日に行きまして、七日の朝そして八日の朝、旭ヶ森にご来光を参拝に登りました。七日の朝は、霧が掛かっていまして、どうなんだろうかなあ思いながら、太鼓を叩きながらお山の上に登って行きました。日の出は、五時十分位予定で、五時頃からお題目を唱えながら待っていましたけれども、霧がなかなか晴れない。今日は無理かなあと思いながら、でも、心を込めてお題目を唱えておりましたら、丁度日の出の時間になりましたらね、水平線にわずかな空間が出来たんですよ。上は曇ってるんですよね。そのわずかな空間からピカッと朝日が昇ってきたんですね、もう、感激でした。そして、太陽の全体が昇ったと思ったら、上からまた雲の中に隠れていきました。ホントに有り難いご来光を拝ませて頂きました。 建長五年四月二十八日、日蓮聖人も、こうして登り来る朝日に向かってお題目を唱えたんだろうなと思うと感慨無量でした。下山の道中、仲間の人がこんな話をしていました。「いやあ、たいしたものだなあ、亡くなってから、七百年以上も経っているのに、こうして年間百万人以上の人がお参りに来るんだからなあ、日蓮聖人という人は凄い人だなあ」と言ってました。確かにそうですね。日蓮聖人は、お題目を唱え始めてから七百五十年、亡くなってから七百年以上経っているのに、清澄というお山に、年間百万人もお参りをする。身延山はもっともっとでしょう。何百万人という人が年間お参りしていく。これだけの力を持った人というのは、素晴らしいもんだなあと思います。と同時に、日蓮聖人の心、日蓮聖人の精神というのは未だに生きていて人を引きつけているのだとつくづくと思いました。肉体の身はだれでもたかだか何十年で滅んでしまいますけれども、そこに宿る心、精神というものはずっと生き続けて行くんだということをまざまざと感じさせられました。 今日は、この命というものについて皆さん方と一緒に考えてみたいと思います。肉体の命は滅びます、必ず。しかし、この心、精神、魂というものは滅びないんだということについて今日はお話をしたいと思っております。 私は今まで、医者としてあるいは僧侶として沢山の人の最期を見送ってきました。たくさんの人の最期を見送ってきました。その中で、ふっと思い出すだけでも、ああこういう人がいたなあ、ああいう人がいたなあということが瞼に浮かんできます。医者として見送った人の中でも、今思い出せばいろんな人がいるんですけれども、その中に、こういう方がいました。ある時、九十位になるのおじいさんが、肝臓の腫瘍があって入院してきました。入院はしたのですが、本人が「もし悪い病気があるんだったら治療はしないでほしい」って言うんですね、治療はしないでほしいと。私も若かった頃ですから、「治療しなくていいんだったら病院に来なくたって良いんじゃないか」などと思ったりもしましたが、まあ、一人暮らしだったものですから、そういう事情もあって廻りの人達が心配して入院させたということなのです。ところが、入院してみても、本人は治療をしないでほしい、検査も余りしないでほしいというんですね。困ったなあと思いながら、家族の人と相談して結局は何にもしないことにしました。点滴もしない。飲み薬もない。ただ食事を出すだけ。そのご飯もだんだん食べられなくなりましてね、水も飲めなくなって、最後は静かに枯れるように息を引き取ったんですけれども、今になって考えてみると、何もしなかったことが、正解だったと思っています。きっと点滴をしたりすると、痛いのに我慢してベットに横になっていなきゃいけない、それは精神的な苦痛だったろうと思いますし、もう九十の方ですから、人生にある程度満足をしていただろうし、覚悟もしていただろうし、そういう人に無理矢理に、嫌な点滴や薬をやったとしても、はたしてどの位プラスになっていたか分からない。今にして思えば何にもしなかったことが正解だったと思います。お医者さんというのも時には何もしないことが一番良いこともあるんだということをつくづく考えさせられました。 癌の告知をした人も何人もいます。その中の一人で、大腸の腫瘍の人がおりました。家族と相談の上で大腸の悪性の病気だというお話をしましたら、そしたら「自分は家に帰りたい。家でゆっくりしたいから、帰して欲しい」と言うのですね。そこで、病院の車で一時間ぐらいの自宅まで看護婦さん付きで送っていって、最後は近くの開業の先生に往診をして貰いながら自宅で息を引き取ったという人もいます。この方の場合は、遠くに離れていた娘さんが退院したという話を聞いて、あわてて駆けつけてきましてね、「何で退院させたんだ、こんな重大な病気なのに、何で退院させたんだ」と、えらい剣幕で来られたんですが、「いやいや、本人と奥さんがそういう希望だんたのでそうしました。きっとこれが良いことになりますよ」と説得をしたんですけれど、なかなか納得しない雰囲気で、目をつり上げて帰っていったんですね。家に帰ってから二週間ぐらいして亡くなられたんですが、その報告をしてくれたのが、そのえらい剣幕で怒鳴ってきた娘さんだったんですね。「あの時は失礼なことを言って申し訳なかった。結局家に帰って家族に囲まれて好きなことをして、最後は本当に静かな最後でした。あれがやっぱり一番いいことだと先生がいってましたけど、その通りだったです」という報告を。 誰にでも病名を正確に告知することが一番いいとはいえません。その人その人の考え方、あるいはその人の置かれた環境のことがありますから、誰でも、それが良いというわけではないんですが、一番大事なのは、その人本人の気持ちを一番大事にするという事だろうと思います。その人が入院したいと思うのであれば、入院させてあげるのが良いだろうし、家に帰りたいと思っているのであれば、希望を叶えてやるというように、その本人が一番良いと思った方法をまわりの人達が手配してやると、これが一番だろうと思います。 ちょうどこちらのお寺の隣の家が、私のお婆さん、祖母の実家なんですね。そして、私の母親の姉が嫁いだ家でもあるんですが、その隣の家の私の母の姉は、一昨年、八十八歳で亡くなりました。丁度米寿で亡くなりました。最後は寝たきりの状態でしたけれども、大往生しました。何歳になっても悲しいことは、悲しいけれども、そのぐらいの年齢で終われるのであれば、まずまず満足しなければいけない。しかし世の中には、若くしてこの世を去らなければならない人もたくさんいます。 ついこの間も、私の中学校の同級生で仙台で暮らしている人がいたんですけれども、今年の八月のお盆過ぎ、十七、八日位のとこだったでしょうか、同級生仲間から電話があって、「仙台にいるあの人の息子さんが亡くなったらしいよ」という電話なんですね。ビックリしてよくよく聞いてみると、どうも八月の十三日、仙台あたりは大雨だったらしいんですね。その十三日の夜に、大学四年になる息子さん、大体就職も決まっていたようなんですけれども、オートバイに乗っていて、四車線の大きい道路を、どういうわけだかそこで転んでそのまま側壁にぶつかって即死状態だったということでした。大学四年生ですよ。これから社会に出て、お父さんお母さんとしてみればどんなに楽しみで、待っていたかわからない。お姉さんが七月に嫁いだばかりだったんです。二人姉弟で、お姉さんの方が七月に嫁いで、さて、弟の方は来年大学を卒業して社会人になるというその八月に若い命を失ってしまった。それから何日かして私の所に電話が来まして、そのお母さん、私の同級生が、もう二七日を過ぎた日だったんですけれども、電話で泣きながら、涙声になりながら、「これからどうしたらいいんでしょうか。どうしたらいいんでしょうか。菩提寺の和尚さんには亡くなったんだから余りいつまでも、こだわらずに仏壇を求めてそこにお位牌をお供えしなさい。お墓も準備して納骨するようにしなさいと言われるけれども、私としては、どうしても仏壇を用意したり、お墓にお骨を納める事が出来ない。毎日遺骨にローソク、線香を供え、お水やお花をお供えして手を合わせて話をしているんです。どうしても子供から離れることが出来ない。どうしたらいいんでしょうか」という、涙ながらの相談なのです。ああ、可哀想だなあ。可哀想だなあと思いながら、しかし、これは何とも仕方がない。心を慰めようないろいろなお話をしたのですけれども、きっとまだまだ時間がかからなければ本当の心の傷というのは癒えていかないだろうと。ましてや、自分の腹を痛めた子供、可哀想でならない。はたして、この若くして、先程も言いましたけれども、八十九十なって寿命を全うしてこの世を去るのであれば、これはこれでもう致し方ないけれども、この若くして亡くなっていった人達に対して、私達はどう考えれば良いのだろうかと。どうしてやることが、若くして亡くなった人達の救いになるのだろうかと、つくづくと考えさせられました。 思い返してみれば、私の大学時代に中学生時代の仲間五、六人と海水浴に行っていて、その中の一人がおぼれて亡くなるということがありました。また、私の同級生でありますけれども、三、四年前に朝、今で言うとぽっくり病ですね、前の日の晩に何事もなく寝たのに、朝起きてこない、そのまま冷たくなってたという人もいました。その時のご両親、奥さん、子供さん方の嘆き悲しみはもう見ていられない位のものでしたけれども、この若くして亡くなっていかなければならなかった人達の救いというのは一体どこにあるのだろうかということをつくづくと考えさせられたのであります。 私も今日はこうして高い所から、皆様方にお話をしていますけれども、本当のところはどうなんだろうかということを私自身もまだ心の中でも本当に納得しているわけではないのです。日蓮聖人がここにいらっしゃれば、釈尊がここにいらしゃれば、これはもう、皆さん方に納得のいくお話ができるだろうと思います。しかし私にはまだまだ自分自身が納得行かないので、果たして皆さん方に解ってもらえるようなお話ができるかどうか、心許ないのでありますが、しかし、ヒントになるお話しはできるのではないかというふうに思います。そこで今日は皆さん方に三つのことをお話ししてみたいと思うのであります。 一つ目は、三つの傲(おご)りということです。私達の心の中には、三つの傲りの心があると言われております。傲りというのは、傲り高ぶるという意味の傲りです。私たちの心の中には、若さの傲り、健康の傲り、生の傲り、この三つの傲りの心があるというのです。若さの傲りというのはどういうのかと言いますと、若い人というのは年を取った高齢の人に比べれば自分の方が若い、若くて溌剌としていて将来もあるし、夢があるということで、年を取った人に比べれば自分の方が何かちょっと優れているような気持ちがする、これが若さの傲りだというのです。これは、実際の年齢が若いからというだけではありません、例えば五十六十になった人でも、七十八十になった人と比べれば自分の方がまだ若い、八十九十になっても、百で寝ている人に比べれば自分の方がまだ若いというような気持ちで、人と比較して自分の方がまだ良いという気持ちが出てくる、これが若さの傲りというもであるというのです。それから二つ目は健康の傲り。健康の傲りというのは、健康な人、病気の経験がない人というのは病気をした人、あるいは障害を持っている人達、そういった人の本当の苦しみが良く解らない。健康で元気であるということが、病気をした人や、障害を持っている人に比べれば、自分の方が良いというふうな気持ちがしてくる。これは意識するしないではなく、心の奥底の所で何となくこう感じるものだということです。それから三番目は生の傲りです。生の傲りというのは、たとえ若くはない、たとえ健康ではないとしても、死んだ人に比べれば自分はまだ生きてるだけいいんじゃないかという傲り。これが生の傲りというのだそうです。若さ、健康、生の傲りを本当に自分自身で反省して、ああ、自分にそういう心があるなあ、これはいけないなあと思って反省したところに初めて優しい気持ちが生まれて来る。人に対しての思いやり、本当の思いやりの気持ちが生まれて来る。そういうことが、これが三つの傲りという言葉の意味です。 そうして見ると、どうでしょうか、今の世の中、いかに若々しく生きるか、いかにいつまでも健康でいられるか、いかに長生きするかということで、売られている商品がたくさんありますね。いかに顔のしわを伸ばすかとか、病気にならないようにするためには、どういう食べ物を食べてどういう薬を飲めばいいとか、こういうドリンクを飲めば良いか、なんだかんだ、色々あります。健康産業が花盛りです。世の中全てが、いつまでも若々しく、いつまでも健康で、長生きすることが良いことだという世の中になっています。ですけれど、それで本当にいいんだろうかと、ふと立ち止まって考えてみてください。そうすると、もし若さ、健康、生に価値があると考えるならば、若くはない人、健康ではない人、長寿でない人の価値が劣るような気持ちがしてくるのではないでしょうか。若くて、健康で長生きが良いことだという風潮で物事を見ると、若くはない、健康でない、長生きしないことが、何か劣ることのように思えて来るのではないでしょうか。どうですか、皆さん、これで良いんでしょうか。良いわけはないですよね。命の価値というのは長さではない、命の価値は長さではないと皆さん方よく言うじゃないですか。人間の命の重さは地球より重いなんてよく言います。だけど、そう言っていながら、若死にするよりも、長生きした方が良いという話になってしまう。今日も、ここに来る車の中でみんなと話をして来ました。昨日テレビの番組で、元気で溌剌と長生きをして頑張っている人達のテレビの番組があったようですね。あれはあれで結構。長生きすることは結構。だけれども、長生きをしないで、出来なくて亡くなっていった人はどうするのか、小さい子供のうちに亡くなってしまった人はどうするんですか?健康で長生きできたことを自慢に思っている人がいるとすれば、私は若くしてこの世を去らなければならなかった人たちが可哀想で仕方がない。その人達に対しても、本当に救いがなければいけない。これが先ず一つです。三つの傲り。そのことをもう一度自分の心の中で思ってみることが大切です。 日蓮聖人の「崇峻天皇御書」の中にこういう一節があります。「人身は受がたし爪の上の土」人身と言うのは人の身ですね、人の命は受け難し、爪の上の土、爪の上に土をこう、粒を乗せたようものだ。砂粒ですね。土だったら乗るかもしれない。けれども砂粒だったら爪の上に乗せたらころっと落ちちゃう。そけだけ危ういもので、大事なものだ。「人身は持がたし艸の上の露」朝露のように、日が照ればすぐ消える、そういう儚いものだ。「百二十まで持て名をくたし(腐)て死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり。此御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給べし」とおっしゃっておられる。人間として命を頂くことは、大変有り難いことだ。これを大事に大事に育てて、保っていくことは非常に大事なことだ。大事なことだけれども、けれども、しかし、身の宝、身体を保つことよりも、心を保つことの方が遙かに大事なんだと、蔵の宝よりも、身の宝、身の宝よりも心の宝、この心の宝を積むことが大切なんだという事であります。心の宝を積むためにはどうしたら良いのか。これが今日のお話しの結論になるわけですけれども、その前に、二番目のヒントを皆様に差し上げたい。 二番目のヒントを差し上げる際にですね、私は大好きなお話があるんです。大好きな話し。これは、皆さん方聞いたことがある人がいるかと思いますが、宮沢賢治の手紙なんですね。手紙。宮沢賢治は皆さんご存じですね。去年が生誕百年ですから、生きていれば今年が百一歳。実は賢治は三十七歳で肺結核で亡くなるんですけれども、二歳年下の妹のトシ子という人が賢治が二十四歳の時に二十二歳の若さでこれも又肺結核で亡くなっているんですね。賢治は、二歳年下のこの、可愛い、美人のそして女学校の先生をして、まあ、才色兼備の妹だったんですけれども、その妹が若くして肺結核で亡くなった。何故肺結核なんかで亡くならなければならなかったんだろうか、この若さで。そして亡くなった今、どこに行っているんだろうか。安らかな世界に行っているんだろうか、それとも苦しみの世界に輪廻しているんだろうか、妹が亡くなった後、一生懸命考えました。それまで書いていた童話や詩ももう妹が亡くなってから、ぱったり書けなくなってしまった。そして一生懸命妹のことを考えた。考えて、考えて、考えた結果、ある一つの思いに至ったんですね。それを手紙に書いてるんです。これは、普通の作品集には出ていません。ただ手紙ですから、名前も何も付いてない手紙ですから。これが、賢治全集の中に出ていまして、これを見まして私、ああいいお話だなあと思って、皆さん方に紹介したいのです。これは、チュンセとポーセという二人の兄弟の童話仕立てになっています。チュンセとポーセという二人の兄弟の童話仕立てになっている手紙。これを読んでみたいと思います。 「私はあるひとから云い付けられて、この手紙を印刷してあなたがたにおわたしします。どなたか、ポーセがほんとうにどうなったか知っているかたはありませんかチュンセがさっぱりごはんもなべないで毎日考へてばかりゐるのです。」 …チュンセと言うお兄さんとポーセと言う妹、此の二人のお話しです。 「ポーセはチュンセの小さな妹ですが、チュンセはいつもいぢ悪ばかりしました。ポーセがせつかく植ゑて、水をかけた小さな桃の木になめくぢをたけて置いたり、ポーセの靴に甲虫を飼つて、二月もそれをかくして置いたりしました。ある日などはチュンセがくるみの木にのぼつて青い実を落としてゐましたら、ポーセが小さな卵形のあたまをぬれたハンカチで包んで、『兄さんくるみちやうだい。』なんて云ひながら大へんよろこんで出て来ましたのに、チュンセは、『そら、とつてごらん』とまるで怒つたような声で云つてわざと頭に実を投げつけるようにして泣かせて帰しました。」 …まあ何処にでもある仲良く遊んだり、喧嘩をしたりと言う兄妹のふんいきですね。 「ところがポーセは、十一月ころ、俄かに病気になつたのです。おつかさんもひどく心配さうでした。チュンセが行って見ますと、ポーセの小さな唇はなんだか青くなつて、眼ばかり大きくあいて、いつぱいに涙をためてゐました。チュンセは声が出ないのを無理にこらへて云ひました。『おいら何でも呉れてやるぜ。あの銅の歯車だつて欲しけややるよ。』けれどもポーセはだまつて頭をふりました。息ばかりすうすうきこえました。 チュンセ困つてしばらくもぢもぢして云ましたが思ひ切つてもう一ぺん云ひました。『雨雪とつて来てやろうか。』『うん』ポーセがやつと答へました。」 …ちょうど十一月ですから、外は雨雪が降ってたんですね。 「チュンセはまるで鉄砲丸のやうにおもてに飛び出しました。おもてはうすくらくみぞれがびちよびちよ降つてゐました。チュンセは松の木の枝から雨雪を両手にいつぱいとつて来ました。それからポーセの枕もとに行つて皿にそれを置き、さじでポーセにたべさせました。ポーセはおいしさうに三さじばかり喰べましたら急にぐたつとなつていきをつかなくなりました。おつかさんがおどろいて泣いてポーセの名を呼びながら一生けん命ゆすぶりましたけれども、ポーセの汗でしめつた髪の頭はたゞゆすぶられた通りうごくだけでした。チュンセはげんこを眼にあてて、虎の子供のやうな声で泣きました。妹が亡くなってしまった。 それから春になつてチュンセは学校も六年でさがつてしまひました。チュンセはもう働いてゐのです。春に、くるみの木がみんな青い房のやうなものを下げてゐるでせう。その下にしゃがんで、チュンセはキヤベヂの床をつくつてゐました。そしたら土の中から一ぴきのうすい緑いろの小さな蛙がよろよろと這つて出て来ました。 『かへるなんざ潰れちまへ』チュンセは大きな稜石でいきなりそれを叩きました。 それからひるすぎ、枯れ草の中でチュンセがとろとろやすんでゐましたら、いつかチュンセはぼおつと黄いろな野原のやうなところを歩いて行くやうにおもひました。すると向ふにポーセがしもやけのある小さな手で眼をこすりながら立つてゐてぼんやりチュンセに云ひました。『兄さんなぜあたいの青いおべべ裂いたの。』チュンセはびつくりしましてはね起きて一生けん命そこらをさがしたり考へたりしてみましたがなんにもわからないのです。どなたかポーセを知つてゐるかたはないでせうか。」 …妹が亡くなって、学校も小学校で終わって、畑仕事を手伝っていた。そしたら、畑の畝の所にピョンと青い蛙が出て来たので、蛙なんか潰れちっまえと石でガッンとやったんですね。そしたらきっと蛙に傷が付いたんでしょう。その後野良仕事の合間に昼寝をしていたら、夢の中でボーッと黄色い所が出て来て、そこに青い着物を着た妹がボーット出て来た。で、妹が兄さん何故あたいの青いおべべ裂いたのって言った。つまりね、妹が蛙に生まれ代わって出て来ていた。それを知らないで、傷つけてしまった。あんなに可愛く兄妹で暮らしていた、その妹が生まれ代わってきたのを知らないで、それを傷付けてしまった。しかし、このチュンセは何だか解らない。なにがどうしてこうなったか解らない。 「けれども私にはこの手紙を云ひつけた人が云つてゐました。『チュンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんなむかしからのおだかひのきやうだいなのだから。チュンセがもしもポーセをほんたうにかあいさうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもものほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマフンダリカスートラといふものである。』」 …と言うんですね。まだまだもう少し続くんですけれども、こういうことなんです。賢治は自分の妹が二十二歳で亡くなって、若くして亡くなって、今どうしてるんだろうか、妹のために何をしてやればいいんだろうかと一生懸命考えて、考えて、考えた結果、こういう所に行き着いた。こういう所ってどういうことなのかと言いますとですね、私達の命というのは決して今生限りのものではないということです。一つは。私達には今この世に生まれて来る前の生があった。その前の生もあった。その前の生もあった。ずうっと綿々と繋がって行く命の大きな流れの中に私達が乗っている。そしてこの世を、今生の命を終えても、また別な命を頂いて繋がって行く。そういうものだ。そういうものだということに気が付いた。そうするとどうなんだろうか。自分の妹が、今死んで、妹は今どこに行っているんだろうか、今どこでどういうふうにしているんだろうか、ということを一生懸命考えて見ると、しかし、命というのはずっうと繋がりあって行く、今、ここにいる皆さん方だってね、もしかすると、何百年前は、きっと親戚だったかもしれない。だってこの日本に、奈良時代だと全部で五万人ぐらいしか人がいなかったというんですからね。皆さん方と私とその頃親戚だったと言ってもおかしくないぐらい、みんな繋がりあっている。だから賢治は、自分の妹がどうしたら幸せになれるだろうか、妹のために何をしたらいいのだろうかということを、突き詰めて突き詰めて考えると、みんな命が繋がりあっているんだから、本当に妹のことを思うんだったら今いるみんなのために、今いる人達のために、何か良いことしてやらなければいけない。それが妹のためにすることになるんだということに気が付いたんですね。命というのはそういうふうに繋がりあっている。本当に誰かのために、例えば亡くなった自分の父親、亡くなった自分の母親のために何かをしようと思うんならば今生きている人達のために何かしてやりなさい。それが結局は亡くなった人のためになるんだから。そういうふうに命は繋がっているんだということを言いたいのです。そして本当に人のことを、人間の幸せということを願うのならば、本当に自分の幸せを願うのならば、本当に自分の家族の幸せを願うならば、周りの人達全ての幸せを祈っていかなければならない。これが、憲治が「手紙」を通じて伝えたかったメッセージであろうと私は考えるのです。これが二番目の皆さん方にお伝えしたいヒントであります。 若くして亡くなった人の命の救いは何処にあるのだろうかということを今お話しています。そのことを考える際の二番目のヒントとして今お話をした、若くして亡くなった人の菩提を弔う本当のそういう気持ちがあるならば、その人の菩提を祈ると同時に今いる人達の幸せのために力を尽くさなければならないということにつながるのです。 そして、三番目、最後のヒントは、私たちは、今生きている私たちだけではなく、すでに亡くなった人たちの志をも、この世に生かしていくように努力しなければならないということ、つまり、死者を生かす生き方を心がけなければならないということであります。 そして、このような生き方をする人こそが、み仏の子どもであり、日蓮聖人のお弟子だということになるのです。自らもそのような生き方を心がけることを自分の誓願とし、また皆様方にもお勧めして、本日の私の説教を終わらせて頂きます。長時間にわたるご清聴、ご苦労様でした。南無妙法蓮華経。 |